哲女のメモ 3

    #1
    最近の自然災害を総罰と主張したブログがありましたが、社会背景や科学進歩を無視した、日蓮系宗教特有のものと思いました。自分の宗教を強く意識し独善的に中心におきながら、社会現象を関連付けて納得させようとする強引さは、宗教の本質からもっともかけ離れた通俗的精神であると考えます。たとえば、現在では、台風発生のメカニズムを理解することは一般にも可能ですが、時代を遡るほど、社会的影響を及ぼす強風に、悪を退治する神風や、社会の不正義を糾弾する龍の仕業などと表現し納得させました。人間の理解を越えたものに、願望を反映した解釈が当然の行為として行われたのです。そうしなければ社会不安が広がり、社会自体が危機に陥る危険性もありました。

    法華経においても社会背景を無視した解釈は成り立たないと考えます。正しい理解は法華経の成立年代の確定から始めなければなりませんが、今となっては無理があるでしょう。そもそも原始仏典が伝える以上のこと、ブッダ本人の詳細すら伝説のなかにあり、はっきりしないのですから、経典の成立年代や過程を知ることは至難なことです。
    法華経の一貫した思想・万人に仏性を認める普遍性は、ブッダの聡明なる覚りから得られた思想でしょう。しかし、滅後の布教は困難を極めたと推測します。この高度な理論は難信難解であり、ほとんど民衆に受け入れられることはなかったのではないかと思います。社会に受け入れられなければ、仏法は廃れ弘通することはありません。ブッダの思想を伝える正しい法であっても、正統な人によって正しく伝えられなければ廃棄されるのです。仏教発祥国であるインドでは次第に廃れていきました。
    法華経の成立過程において、多くの信仰者の強い使命感があったことは想像にかたくありません。末法に伝えるための命を惜しまない覚悟は菩薩のものですが、その過酷な弘教現場での工夫は知力を尽くしたものでした。嘱累品以下の六品はその苦渋の選択です。人気アイドルなみの知名度があった観音菩薩を、法華経のテーマに関係なく一つのショーウインドー、ディスプレーとして取り入れました。デパートに行ったら最初にショーウインドーを覗くあの心理です。アジアの広範な地域に流布している観音信仰は、日本でも宗派に関係なく取り入れられています。

    わたしの祖母は創価に入会する前、曹洞宗のお寺に石で作られた観音菩薩を熱心に信仰しておりました。そのお寺には、地蔵菩薩も何体も飾っており、時季になると念仏を唱えるお年寄りの集まりみたいなものもあったということです。曹洞宗に念仏とは奇妙ですね。どんな仏でも功徳があるということらしいのですが、宗派に関係なく広く信仰された代表が、観音菩薩でしょう。このような認知度が高かった観音信仰を一つの仲立ち役にして、法華経に導こうとした意図が感じられますが、おかげで法華経も無事に中国、日本へと伝わりました。迹化の仏・菩薩が多くの人の信仰対象になり、芸術の対象にもなりましたが、地涌の菩薩、不軽菩薩の仏像や絵画がないのは、つまりは一般に信仰されなかったからです。法華経の高度な内容はなかなか理解されなかったということは、法華経の性格をよく表しているでしょう。法はあっても、その内容をわかりやすく説く聖人が必要だったのです。
    安楽行品は前記の六品と同じ意図が感じられますが、一般大衆を対象にするというよりも、バラモンや社会的地位の上層にある人々への見苦しい諂いのように感じます。見方によっては、それだけ法華経弘教に対する批判や反対が大きかったということかもしれません。
    安楽行品の不平等思想を克服するためには、日蓮の誕生まで待たなければなりませんでした。カースト(階級制度)外の最下層の人々にも平等に仏性が保証され、むしろそのような人々こそ社会変革の主体者であることを訴えました。自らの生涯をかけて苦難と戦った日蓮は、法華経という法の普遍性を現実に証明した菩薩の姿に他なりません。「旃陀羅が子」という象徴的言葉は、人権宣言に等しいと思います。安楽行品という難題があればこそ、日蓮の御生涯は波乱に満ちた人生になりました。誰も克服できなかった矛盾を生命実相という根源から解決することができたのです。しかも振る舞いと哲学の研鑽を通して体系づけられた理論は、非難と迫害という過酷なプロセスが必要不可欠でした。

    日蓮が人権意識すらない時代に、「自分はいったい何者なのか」という哲学上の根本命題に行き当たったのも、安楽行品への懐疑から始まったのではないかと考えることもできます。
    「御義口伝」での「安楽行品」の所説の項目は、少なく、短い。しかし、法華経を根本としながら法華経の矛盾を克服し、法に従う立場から法に新たな解釈を示し、主体的に運用活用していく立場へと転じていったのが、日蓮の御本仏としての自覚なのではないでしょうか。この主体性こそ、中道主義であり、人間主義ではないでしょうか。それぞれの人生の主体者であれと、日蓮は説いているのです。そうしなければ不平等思想を乗り越えることはできないと訴えているように思います。

    法華経弘通に関係した人々は、崇高な法と危害を加えられる苦しみ、虐げられる悲しみを、同時に味わいました。安楽行品を含めて、法華経は信仰者の財産です。一貫した思想に貫かれた部分と、そこから逸脱する部分と、すべてが財産です。わたしには、法華経弘通を使命としながら懸命に戦った信仰者の姿が思い浮かびます。
    翻訳者である鳩摩羅什は、とても優れた天才です。翻訳しながらきっと、矛盾にも気づいていたことでしょう。それでもその矛盾に対して積極的に挑もうとしなかったのは、それなりの理由があったのだろうと推測します。社会情勢や環境も関係があると思いますが、末法に出現が予言されていた地涌の菩薩を信じていたのだと考えます。単なる学術・学問的な追求以上に、法華経は人間の生き方そのものの原則と可能性が説かれている聖典であり、混乱する現代に最も必要なプロブレムソリューションだと思う。主要な思想哲学をカバーした良心的で我慢強い本質的議論が待ち望まれます。
    生命への尊厳が失われている不平等思想は、常に国家間や人間自身の争いの元凶となりました。またあらゆる差別問題の原因として、マグマのように生命の底流を形作るものと認識も可能でしょう。釈尊が指摘した心に突き刺さった一本の矢です。差異へのこだわりは法華経を貫く一つのテーマですが、これほどの難題は、そもそも法華経製作者がはじめから意図していたことかもしれません。仏智は計り知れません。

    いろいろご意見はあると思います。二千年前も今も、人間はそんなに変化していないように思います。人間の好戦的な資質傾向、獣的な攻撃心は、きっと生存本能に関係しているのでないでしょうか。その意味で、法華経に説かれた「九界即仏界」は重要な内容を含んでいると思います。また日蓮の振る舞いを、ヒューマニズムの観点から深く理解する必要があるでしょう。その行動は慈愛に溢れていたことを、一人ひとりの信仰者が自らのこととして、切実に、敬虔に想像しなければならないでしょう。


    #2
    修羅と餓鬼が乗り移ったような彼らは、自分の歴史を作り始めたばかりで、そのうえ唯物論者であることから、千年、二千年の伝統と歴史であろうと、同じ発音でも大違いの唯仏論者に敬意をはらうはずはなかった。その後、文化大革命によって貴重な仏典が失われるその不吉な前兆であることを気づく者はいなかった。こうして人類史に刻まれる不幸は始まったのです。そしてその悲惨な歴史の中心にチベットを必死に守ろうとするわずか15才の少年が立ち向かおうとしていたのです。彼は観音菩薩の生まれ変りと信じられていましたが、再誕説はどの宗教にも見られる、人間の願望を表す教義です。
    妙法では、地湧の菩薩の再誕が一般化しています。誇大妄想の人間は精神の肥大化を招き、菩薩のなかの菩薩と拡大解釈し、ブッタや宗祖に比肩するなどと病的な飛躍を躊躇しません。人間って特別視されることを望むものなんですね。特殊性を単純化する手法は、煩雑さを好まない大衆に受け入れやすくなりますが、およそ宗教の普遍的な部分は、難解であることを覚悟しなければなりません。観音菩薩も地湧の菩薩も法を体現しており、理想像として人々に訴えるからでしょうか。法華経にそう説かれているからです。観音もまた同じでしょうか。そういうわたしも、地湧の菩薩を最も身近な信仰者の理想として信じている一人です。世界を救済する人物は菩薩よりおりません。
    他者に対しても、自分のことでも、苦しまない菩薩はおりません。菩薩は弱肉強食の動物ではなく、本来は他者思いの人間だからです。


    #3
    先生は中国の多くの大学から名誉称号をいただいていますが、国家的あるいは行政の承認と意図があることは自明のこと。先生は求めてくる者を拒否しません。来る者は拒まずです。少しでも可能性があるなら、人道を説き倫理を説かれるのですが、弾圧に自ら手を汚しているに等しい中国の知識人に、その真意が正しく伝わるのか、また創価のなかでも、師弟を連呼する者が先生の苦衷のご心境を理解しているのか、わたしははなはだ懐疑的です。先生が人権侵害に悩まないはずがないではありませんか。名誉ほど、盲目的に追随する者を惑わすものはありませんし、執着の対象になるものもありません。
    大聖人は極貧のなかで生涯を貫かれました。現世安穏・後生善処が法華経の功徳なら、また妙法の実証には経済的豊かさも含まれているのに、どうして大聖人は食も衣服も最低の必需品にも困窮する大変なご一生をおくられたのでしょうか。如説修行抄では、精神の富める者こそ人間王者であることを説き、身をもってその功徳を示されました。
    創価の幹部も清貧であっていただきたいと思う。私利私欲がないからこそ尊敬される。お金が集まるところには必ず問題が起き、その清貧とはかけはなれた使い道と、問題を隠蔽しようとして新たな問題が起きるのです。

    コスモポリタンであることを先生は訴えますが、どこかの国家に属しないコスモポリタンなど有りえないし、真の国際人も国家の繁栄を願ってこそ、その根拠となる行動動機を得ることができるのではないでしょうか。
    明確な国家観を持たない日本人は国家の消滅さえ願う。今こそ保守思想の、保守たる所以を明示しなければならない。今まで何度、ヒューマニズムという着飾った言葉で、多数派の専制による民主主義の堕落を許してきたことでしょう。

    女子部のとき、部討議で忘れられない思い出があります。こちらから要請したわけでもないのに、区幹部がおしかけてきました。わたしのような部長は心もとないと思われたのかもしれません。立正安国論を通し指導されましたが、国家観を持たない人間が聖教ダイジェストのような中身を得意気にお話しても、感銘を与える話にはほど遠い。政治イデオロギーとしての妙法、宗教と思想の混乱が国家存亡の危機を招きよせていることを子細に検討しているのに、また国家諌暁の現代的意義を問うことなしに信仰者の政治参加もありえないのに、さらに人道的立場から批判すべき多くの問題を抱えているにもかかわらず、ただ選挙目当ての友好活動の強調など、政治改革への厳しい展望を持たない女子部幹部はただ単に組織の流れに沿う一歯車。公明党の政策の是非を検討しないで自分の考えも持たない愚かしい姿です。
    討議の前提となる政治課題さえ知らない。先生が創立者であるというだけで、支援動機として十分なのでしょうか。それならば、なぜ党を罵る反逆者が出てくるのでしょうか。これは反逆者個人の問題では済まされないと思う。理想を誓った党自体の団結に齟齬をきたしている問題だと思います。理念が剥落したために、凡庸なヒューマニズムをとりあえず掲げるという始末です。

    アメリカイズムという理想国家を押しつけようとした憲法。戦後、平和と軍隊という最も重要なテーマに口を閉ざしてきた国民の無責任さは、わたしたちの世代で解消したい。自衛隊がなければ国を守れない現状を厳しく認識すべきです。その自衛隊に武器を取るなと命令するのが憲法と政治家、それに国民。こんなバカバカしい憲法はありません。
    わたしは、日和見主義の公明党の政策に支援根拠を失いつつあります。個人もそうですが、中小企業にとって増税がどれほど負担になるか、わかっているのでしょうか。社会保障一体改革といってもどれも簡単にいかない難しい問題ばかり。また民意に従うなら議員定数の大幅な削減を実現すること。中選挙区制に戻すことを含めた選挙制度改革。原発再稼働は安全基準をクリアしたら可能なのでしょうか。どのように決着をつけるつもりでいるのでしょうか。福祉重視の政党なら、生活インフラとしての電力についても、発想の根本的転換が必要なのではないでしょうか。
    また震災ガレキ処理も自治体住民の反対で受け入れがスムーズに進んでいませんが、こういうときこそチーム3000の出番なのではないでしょうか。各自治体の公明議員が連携し市民の意見を積極的に取り上げて、自治体の個々の都合を乗り越えた住民密着の前向きな提案作りを推進できるのではないでしょうか。どうか各地で公明議員に訴えていただきたいと思います。

    具体的に政治の何を変えたいのか、国のあるべき未来を思い描けない、勉強不足のリーダーは創価のリーダーの名を汚すだけ。
    政治と宗教が表裏のように不可分のものとしてあった時代に、宗教者の言動はつまり政治改革者の言動でもありました。大聖人への弾圧は、他宗の讒言があったとしても政治的なものです。政治改革なくして安国はありえないとするイデオロギーは、すべての法を包括する妙法の一側面であったとしても喝破できない重大問題が含まれていました。宗教の使命である民衆救済は、政治を含めた社会の変革なくしてありえないことを立正安国論では説いているのです。当然、為政者に寄生虫のように張りついて生血を吸っている宗教者は、心のなかは空洞、権威と名誉、名聞名利しかありません。仏教精神からかけ離れた俗物的栄誉よりありません。現在の中国の知識人と同じ姿です。国家批判は体制批判ということであり、国家に飼い慣らされた人間に正しい主張ができるはずがない。

    信仰に純粋であろうとする気持ちは皆同じです。ご本尊さまと信仰者の関係は一体不二です。労苦を厭わず献身し、他者の喜びを自分の喜びとして人生の在りようを覚悟した人々の集まりであったからこそ創価は発展したのですから、先生が教えてくれたその尊い創価精神の実現をともどもに果たしていきたいと思います。
    改革は漸進的なものです。しかし、わたしのように組織で一人浮いている人間を、道理と哲学によって諭すわけではなく、ただけむたがれている存在は悲しいというよりありません。でも、社会の縮図である創価は、不変の部分と、時代に即した変化を受け入れなければならない部分もあることを考えていただきたいと思うのです。

    まず、マイ聖教はやめていただきたいこと。選挙支援のあり方、方法論としての有益性、無益性を考えていただきたいこと。競争心を煽りかねない成果追随主義、信仰には相応しくない成果主義で、何がワルいと開きなおる人がいて困惑しますが、組織の目標設定が必然的にノルマ化する過程を改善していただきたいこと、拡大はノルマではないのです。信仰は自発的なもの、組織の上意下達に関連して、会員の自由裁量の範囲を拡大していただきたいこと。未入会の方々を含めた中立的で自由な仏教研究会を永続的に地域に設置していただきたいこと、などです。
    現状肯定がさまざまな問題を生むのです。悪しきドグマに絡められる病理は、少なくとも現状追認の改革意欲の減少からもたらされるのです。
    科学的統計的な現状認識が問題を想起させる資料になるかもしれません。しかし、統監ひとつとっても一般会員が知り得ない項目があります。創価の執行部はきっと、危機感いっぱいだと推測します。したがって、一般会員が黙って打ち出しをこなしてくれさえすれば、当分問題は顕在化することはないと踏んでいるでしょう。消極的な組織運営というところですが、こういうときに限って、創価のためという大義名分のもと、信仰者の行動を天秤にかけて信仰の価値基準をあやふやにするような問題が噴出するのです。
    強力なリーダー不在ということもあります。演説と指導はイキイキとした面白さと教訓にあふれていなければなりませんが、本幹での原田会長の原稿を読むような話しっぷりにあまり感動することはありませんし、会館を出ればすぐ忘れてしまうほど印象がうすい。

    戦後アメリカン・フリーダムとして導入された個人民主主義は、わたしたちの体質同然に染みついています。その弊害を指摘することは簡単ではありませんが、社会を動かすのが良くも悪くも世論であるのと同様に、創価を変えるのも多数の会員の意見でしょう。その意味でも、積極的に主体的に、信仰活動が豊かな人間関係を作り出すことができるように、知的ならびに倫理的なアプローチと多様な人材獲得に、実践的経験を積み重ねていきたいと決意しています。組織はどこまでも人です。その原則を忘れないことを願うばかりです。


    #4
    わたしは、性格的に大雑把なところがあります。もちろん自分でもよく自覚しています。
    実際的な数値や事例をあげて検証する理科的能力に劣っています。言ってみれば、一般的にいわれる女性脳が不得意とする論理的分析を苦手とし、感情論に陥りかねない表現になってしまいます。
    でも自分で言うのも気が引けるのですが、直観的感覚に優れているように思えるのです。また細部より全体、それなりにコーディネートされて雰囲気がでていればOKというこだわりのなさ。ですから、家事その他、家庭的なことはできるだけ手を抜かないようにしています。料理教室にも根気よく通っていますし...
    どうでもいいことですね。

    わたしなりに論理を尽くしお話しても、まず支援ありきという姿勢には変化がありません。そんな頑固な壁の前で、いつも挫けそうになってしまいます。
    はっきり申し上げれば、組織疲労というものがあれば、現在創価はその過程に落ち込みつつあると感じられますが、いずれ誰の目にもあきらかになるような形で、問題は顕在化すると考えています。まず人材が不足します。
    粘り強い改革意識を継続しなければならないと、自ら戒めています。
    公明議員さんは他党の議員さんに比較すれば、どの方も献身的に行動し、支援に値する方ばかりと思います。それと政策の善し悪しは別問題です。


    #5
    以前、ゲーテの言葉を引用し、記事を書いたことがあるのですが、意味がわからなくて、自分なりに勝手に解釈しました。
    『古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である』
    その意味するところは、(エッカーマン「ゲーテとの対話」)のなかにありました。

    『古典的なものを私は健全なものと呼び、ロマン的なものを病的と呼ぶ。この意味でニーベルンゲン(中世ドイツの叙事詩)はホメロスと同様、古典的である。なぜなら、両者とも健全で、力があるから。新しいものの大部分は、新しいからロマン的なのではなく、弱々しく病的で、実際むしばまれているから、ロマン的なのだ。古いものは古いから古典的なのではなく、強く生き生きとして、快活で、健康だから、古典的なのである。そういう性質に従って、古典的なものとロマン的なものとを区別すれば、事は容易に明らかになるだろう』
    ルネサンスは古典への復興運動ですが、内容はロマン的な復興運動でした。ゲーテは古典を健康と比喩していますが、病んだ体が健康を取り戻していく過程と考えれば、ルネサンスは新古典主義とも言うべきものです。
    人間はそもそも病むものです。また社会も病みながら不幸を生産します。精神が健康的だった時代は、空想のなかにしか存在しないように思います。時代はいつも病んでいたのです。これからも病み続けるでしょう。そして夢をみればみるほどロマン的になり、不健康な精神が謳歌する。現代も間違いなく病んでいます。

    最近は音楽の神に誓った言葉を忘れつつあります。天使のキラキラスティックも見えません。音楽が示唆を与えてくれないのです。それでも相変わらず、ロック娘のプライドは持ち続けています。
    ずっと前に買ったCDで、マリア・カラスのアリア集のなかに、グノーの「ファウスト」からの「トゥーレの王~宝石の歌」が入っていました。ワルツ風のアリアは、今のわたしにぴったりかもしれません。恋って美しい。悲しい恋も楽しい恋も。

    衝動買いしたオートマティック・ラヴレターの初CD。日本語タイトルは「堕天使の告白」。ちょっと過激なフレーズ。まだマイナーな存在ですけど、ストレートな感情表現でキャッチーな雰囲気はあります。次作に期待。
    ブルース系では、お馴染みのデレク・トラックス・バンドのライヴ盤と、シンガーの奥さんと共演した新アルバムの2枚。
    そのなかの一曲にこんな詩がありました。

    『もう私のチャンスは過ぎ去ってしまったの?
    それとも人に与えることができるようになるの?
    自分を縛るこの鎖を捨て去って
    新しい生き方を見つけだせるの?
    簡単なはずはない
    友達がいればそれで十分
    そしてあなたが傍にいてくれたら
    私はきっとやり直せるはず
    決して手放したりしない
    決してあきらめたりしない』


    グッドな歌詞よね。

    ゲーテの言葉を引用すると、
    『多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから』(格言と反省)

    わたしより辛辣ですね。すっきりしました。


    #6
    日本は物質的に豊かな国でありながら、先進諸国のなかでもきわめて幸福実感が乏しい国です。統計的な調査には国民性があらわれ、一概に断定できませんが、無縁社会、自殺者数などがクローズアップされると、決して住みよい社会でないことは誰もが感じるところです。政治の混迷は、さらに日本の未来を暗くするでしょう。そのような状況を作っているのは公明をふくめた政治家です。

    逆境に耐え克服していくことが創価精神の一つのテーマですが、わざわざ作らなくてもよい逆境を作り、挑戦して行こうと考えるのもおかしなことですし、またその逆境を克服していくことが幸福につながると主張するのも矛盾した論理です。
    政治が国民のためにならないのなら反対するのは当然で、公明党がどのような政策を掲げようと、とにかく支援ありきとは目的喪失の危険な兆候と見なしても間違いありません。組織の中心者は、単に扇動者と揶揄されてもおかしくない。逆境にいること自体に意義を見出だしているような詭弁がまかり通っては、人間主義の名が廃れます。
    幹部のなかには、苦しまぎれに、困難だから支援も功徳があると強調する人もいますが、わざわざ困難を作るなと言いたい。
    行動は目的地があって始めて行動たる意味があるのであり、目的を持たない行動などありえません。

    わたしたちは、妙法という新しいルールにしたがって、新しい信仰や道徳、言語を得ました。そのルールが究極のものであれば、未来永劫、そのルールの流布に務めなければならない宿命にあります。
    同苦と利他はイコールで結ばれるアクティブな行動です。わたしたちはその核心となる慈悲の精神を新しいルールで知ることができました
    しかし、いつでも、その実践集団に従うことが、信仰者のとるべき態度ではないと考えます。幹部のなかには自分の意見を検討もしないで、上にいる人間がそう言うのだから間違いがないだろうと、他人に依存して疑問に思わないご立派な方もおられますが、村社会で染みついた判断習慣が形を変えて支配しているのであり、先生が最も嫌う主体性の喪失にも気づきません。
    信仰に柔順であることの大切さは先生がご指導されていることですが、すべてに適用されるわけではありません。他人に判断を任せる人間を軽蔑します。創価も信仰があるだけの烏合の衆です。愚かなる大衆の一員です。
    自分の本心を決して言わない人が、創価のなかにもいる。疑問を感じていても争うことなく平穏に、波風が立たないように、集団規律を重視しているのでしょう。一見大人のような態度に見えますが、はっきり言えば、ただ覚悟がないだけ。信仰は戦い。自分を主張せずして、正義とは言えません。
    壮年部はいつも婦人部の影に隠れて、今大事なときなのに声をあげようとしない。いくじない、小心者のあつまりです。何か言ったら脅し半分で忠告を受ける。創価はヤクザ集団ではないのです。戦中時代、思想統制をうけたとき、どれだけ勇気ある人物が立ちあがったことでしょうか。

    わたしは、宗教組織は完璧でなければならないと言っているのではありません。不完全な人間が集合して組織するわけですので、完璧であろうはずがありません。しかし、先生がそうしたように、改革努力は怠ってならないと考えるのです。
    師弟一体と言うとき、すでにわたしたちは師の思いに違背しています。師は創価を何より大切にしてきたからこそ、改革努力を惜しまなかった。幸福集団を実現するために、人々を啓発し教育し、そのような夢のような理想を追い求めてきた民衆指導者はかつていなかったでしょう。組織は幸福という花が咲き乱れてこそ意味があり、そのためには絶えず土壌改良を心しなければならないと思います。先生はその土壌改良を推進してきた開拓者なのだと思います。
    問題は上も下もなく会員同士で共有すること。そのためには、必要な情報は開示し問題点を提示しなければなりません。創価の歴史認識に誤謬や隠蔽といった悪質な企てを加えることなく、学術的にも耐えられる一定の検証過程を、辛い思いをしてもやらなければなりません。

    SGIは人類の希望です。その堅固な仏教思想と人間主義という慈悲の普遍思想は、先生のたゆまない知的格闘と実践から生みだされたと、わたしは承知しています。
    わたしたちがすべきでないこと、それは責任回避です。人格向上のかずかずのトライアルのなかで、組織運営だけでなく、組織創設に比すべき新たな挑戦――それが責任感の証ではないでしょうか。問題克服は共同でやり遂げてこそ発展につながります。妙法で言う団結とは、会員の連帯に他なりません。
    自分に甘く、判断を拒否するような人間は、使い物にならないガラクタに等しい。また感動する心があれば信仰の質も向上するのであり、いくら堅固な論争を経た結論であっても、生活の場で生かされない思想や判断など、タンスの奥にしまわれた陶器のように、まったく実生活に寄与するものではない。彼らは自己懐疑、つまり自分の判断が正しいかどうか、の作業を放棄した自堕落な種族であって、社会に害を与える似非信仰者です。妙法を保ち続けていても、大聖人がおっしゃったように、地獄への足どりを停めない人々です。
    言い過ぎでしょうか?
    わたしはまた、軽善の罪を犯してしまったかしら。

    妥協するな、孤高を歩め!
    「一人立て」とはそういう意味ではないでしょうか。
    釈尊も大聖人も、そういうご生涯だったのではないでしょうか。


    #7
    法華経は実際に釈尊が説いた経典なのかという、以前からの問題があります。「法華経の智慧」だったかどうか忘れましたが、先生も話題にしていたと思いますが、そのときの先生は、誰が説こうと内容の素晴らしさに変わりはないという答えだったように思います。わたしもそう思います。大乗仏教は原点回帰運動でもありましたが、平等思想、悟りの達成と意味、信仰と行為のあり方など原始仏教の思想と共通するところが多い。つまり誰が説いたかではなく、何が説かれているかということが大切と思います。
    日本で大乗非仏説をとなえた人として有名なのは、江戸時代の富永仲基ですが、このような独創的見解はその後の仏教界では無視されました。今となってみればその研究は正しかったと言えるのですが、この説を認めれば仏教界に大変な影響があることはあきらかですから無視され続けたのです。

    大聖人は独自の法華経解釈を行いました。例えば、「自我偈」の「自我得仏来」から「速成就仏身」の最初と最後の文字をとり、「自身」を説いたものと言われましたが、「自我得仏来」は「我れ仏を得て自り来」(われ仏を得てよりこのかた)と読みくだすのです。漢文では「自」は「~より」と読み「自分自身」という意味の「自」ではありません。もちろん大聖人は十分承知のうえであらたな解釈を試みたのでしょうし、それが法華経の精神と合致していたことは言うまでもありません。つまり大雑把に敷衍していえば、文底の解釈とは大聖人の独自の解釈をいうのであり、人間そのもの、生命そのものに焦点を当てた解釈と言えます。
    また「我実成仏已来」の「成」について、「成とは開く義なり」とあります。「成る」ではなく「開く」と解釈しています。現在の自己を否定し別の自己に成るという自己否定ではなく、自己はそのままに自己の可能性を開きあらわすという自己肯定の意味です。仏に成るのではなく、仏の命を開きあらわすのです。そのことを知る人を覚者というのであり、ブッダが「目覚めた人」と説いた人格と同義と考えます。

    仏教にかぎらず宗教の歴史は、解釈と深化の歴史です。
    後五百歳と説き、仏滅後2000年を経過したのち、始めてその深化が完成すると予言した叡智は、三世を見通す究極の仏智という他ありません。すでにその時点で、仏教というカテゴリーを超えているのです。解釈と深化という視点から後五百歳の時代区分を見れば、とても興味深い世界歴史観が確立されるのではないでしょうか。そして、その最先端に先生の人間主義も位置付けられると思います。
    「在在諸仏土常与師倶生」という契約の言葉(「我等無始より已来師弟の契約有りけるか」御書p1342)から直観するのは、人間主義思想の実践者は現在も未来も精神の勝利を目指す仏弟子だということです。師弟の因縁はとても堅固です。
    わたしは先生の人間主義こそ、歴史の重い試練と検証、研究に耐える思想と確信しております。伝統の仏教思想の樹木の枝に美しく華開いた蕾と比喩してもよいでしょう。そして人類の希望となる新思想です。でも、SGIとしてのグローバルな広がりのなかで、まず最初に主張すべきは善悪のけじめです。自由を侵害する独裁主義思想は断固として否定しなければなりません。

    信仰が自由であるように、活動も自由です。非活であっても功徳は十分過ぎるほどあるでしょうし、その喜びのなかで使命を感じ、自分なりに考え方と生き方を変えていければ、人生も有意義なものになるのではないでしょうか。法の流布へのいろいろな貢献のしかたがあって当然と考えます。
    組織を守るということは、そのなかで自己実現をはかろうと努力している会員を守るということです。そのためには会員の気持ちを素直に受けとめる必要があるでしょう。無理をしていないか、怨嫉をしていないか、何か疑問に思っていないか。言葉を選び適切に直言する度胸と勇気が多くの共感を得る行動と思います。思慮深い慎重な判断と行動をお願いします。


    #8
    人間主義を理解するキーワードは、「非暴力」と「調和」だと思います。
    広宣流布を破壊する仏敵には決して妥協してはならないと、先生は機会あるごとにご指導されております。日蓮の排他主義がときどき問題になりますが、法華経では悪人への厳しい指弾とともに成仏の可能性を随所で説いています。安楽行品ではじょじょに誘引する摂受が説かれ、常不軽菩薩品では妥協しない折伏が説かれ、方便品で生命の尊厳性を説いたにもかかわらず、陀羅尼品では法華経無理解者に対して排他的な言説が見られます。提婆達多には未来成仏を約束し、不軽菩薩に迫害を加えた男女にも更生の可能性を示しました。大聖人は「願わくは我を損する国主等をば、最初にこれを導かん」(顕仏未来記)と言われています。法の流布を懐疑的に攻撃してくる敵対者を最初に救済すると断言されています。
    大聖人は戦う寛容主義者でした。大聖人が戦ったのは、法華経誹謗の非寛容な思想に対してです。念仏の他力主義は人間の主体性を失わせ、真言の神秘主義は人間とかけ離れた超人的仏が中心であり、禅宗は日常性を軽視する傾向があり、律宗の戒律主義は他律主義であり、法華経から見れば、それぞれが人間性の可能性を否定する思想でした。このような思想は形を変えて現在でも生きているのであり、それが根源的な悪であることは、わたしたちが十分学んだところです。生命の自在さを本源的に否定する反人間主義といってもよい思想への戦いは、創価のリーダーに継承されています。
    人間主義は自由自在にすべてを生かす智慧であり、変化と多様性を硬直的にとらえる思想ではありません。現実に即し、自他ともに幸福を実現していく実践的方法です。
    自分を捨てて他人に献身するのではなく、また自分の幸福を優先する独善やエゴイズムでもなく、他者共存と生命の全体性を信じる中道思想。人間の主体性の理想を説く中道こそ人間主義の要です。先生のすべてを生かす哲学と実践は、実は社会のあらゆる分野において、パラダイム転換を迫っているのです。
    先生が多くの称賛とともに無理解の非難にさらされるのは、すべてを生かす全体性という思想の巨大さを理解できないためと思われます。悪も善も、否定も肯定も、差別も平等も、排他でもなく包括主義でもなく、妙も不妙も調和していく、それが法華経の真髄であり、人間主義の真の姿です。

    組織批判をして、それを最後まで貫き、組織を新しく作りあげた人は皆無です。でも無駄ではありません。法華経においてどのような意見でも無駄ということないのです。


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    For Hong Kong
    Eternal Eclipse - "Forgotten Odes"


       Tracklist :
        00:00 The Game Is Afoot - Neal Acree
        02:33 Dirt and Fire - Piotr Musial
        04:43 Revolution - Piotr Musial
        07:10 Dawn of Faith - Thomas-Adam Habuda
        10:22 Born from Ashes - Axl Rosenberg

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