哲女のメモ 4

    #1
    kumagawa.jpg今年に入ってから、なんとなく憂鬱な日々が続いています。心配事があるってことかしら。新型コロナもそうですが、最近の豪雨災害も心に重くのしかかります。自分が被害者でもないのに、心のなかがどしゃぶり。悲しくて絶望的。
    前向きに考えられないのがわたしの欠点。でもそういうわたしも自分の一部だから、今さら気にすることもないのだけれど、何か重いものを引きずっているようで、いつもの明るさは何処へやら。考えることも考えられない。一日一日があっという間に過ぎていくようで、貴重な時間を無駄使いしている気分です。時はうつろ、季節もうつろ、わたしもうつろ。自分で自分を慰めても解決するわけでもない。唱題すると涙が出てくる。ご本尊さまって卑怯だよね。何も解決してくれないんだもん。わたしの宿業?  言いたいことは分かっているわ。

    でも、宿業をどのように解釈するかが問題よ。目に見えないものは信じて確信するしかない。きっと宿業はあるのだろう。そしてそのカラクリを懇切に解いた仏教は強靱な第一原則たりうるのであり、議論の余地はない。理性を知る者は理性の限界も知る。したがって宿業は信じるしかないのだ、とアンナは自信たっぷり自分に言い聞かせたのだった。
    宗教が滅べば理性も滅ぶ。信仰を失えば確信も失う。ガソリンなしでどうして車が走るだろうか。信仰なしでどうして人生を走ることができるだろうか。
    実行は難しいけれど真理は単純です。これはあらゆる芸術作品と共通している。特に推理小説はどんなに複雑なストーリーでも核心のプロットは単純なのです。必ず犯人の正体がバレて、犯人も正直に告白するからね。探偵ももったいぶって解説するのを得意とする。はっきり言って舞台に登場する役者さんて饒舌ですよね。みんな自分を主張しているわけです。
    だからって軽率な思いつきではないけれど、その上でわたしも宣言しよう。わたしは敬虔な仏教徒であるということ、日蓮イズムというストーリーを追う探偵であること。

    創価は間違なくブッダからの正統を汲む開かれた伝統なのです。もしも否定することが正しいとすれば、ブッダからの流れも否定しなければならない。こんなことを書けばたちまちアンチの方々から反論を浴びそうです。「子供の楽園」のような議論はおことわり。
    人間解放は近代の社会科学を論ずる前提とされてきましたが、普遍化した苦難からの解放は未解決であり、さらに増大する気配です。何が求められているかと言えば、異なる思想、異なる人間の連帯であって、争うことではないのです。でもそうは言っても、カリスマ的改革者におおいに疑問を抱いている人々が、自らの行動規範に絶えず感情を持ちこんで盲目的に嫌悪する抵抗姿勢を、わたしは憐れむほかありません。彼らはペシミズムという雲の下で自ら進んで雨に打たれている人種であり、創価によって日本が乗っとられ、やがて善良な国民が抹殺される陰謀が着々と計画されているといった議論になるとにわかに目を輝かせ、更なる悲劇を演出しようと試みる。根拠のない悲劇は喜劇であり、雲が必ず雨を降らせるとは限らないのに、禁欲的潔癖さが小児的愚昧さを象徴していることすら気づいていない。そういう悲劇は喜劇というよりないであろう。一体、文化とか文明とか歴史とか伝統といった自分自身を形作るものを、ほんとうに理解しているのか疑わしい。重要であり危機であると訴えながら、空疎で内容が伴わない希望とか信頼とかの言葉を連発するのであるから、裏返して言えば彼らがしがみつく正義は、コマーシャリズムに踊らされた大量生産の通俗的精神を生みの親とする消費型正義なのです。日蓮もかつて味わったように、正統はまた異端であるという正義こそ、辛辣な烙印に耐えられる強靭さを備えている。軟弱な正義は、社会を混乱に導くだけです。
    しかし、創価のなかでも勝利を強調するあまり、その精神を忘れているのではないか、という危惧を抱くのはわたしだけだろうか。例えば政治に対する姿勢では、無条件に無批判に支援し、その背景を考えない傾向が顕著であるからです。公明党に対しての先生のご指導も、創価と公明党は一体であるというのもあれば、党の独立を促すものもあり、結局会員はその間を右往左往しているとの見方もできるのではないでしょうか?
    信仰者は政治権力を捨てよ、とわたしは言いたいのです。
    宗教には元々、「闘争」の側面が多分にあることは誰もが承知しています。自己との闘争が信仰なのであり、ひいては醜悪な社会に、必死の覚悟で闘争を挑むのが宗教なのです。このとき寛容や多様性といったものは地平の彼方で浮き沈みしている。未だに争いは無くならないし、血を流すことにも慣れっこになってしまった。文明が進化し生活水準が豊かになっても、一方で人道的な責任は放棄し、多くの人間は傍観者という最悪の大衆になりさがる。国家公認殺人者はより高度な技術を発明し、技術的進歩が世界貢献と平和への道であるかのように錯覚する。倫理とは見た目はスマートなガバメントの都合よい大衆迎合の論理でしかない。近代の心ある思想家が指摘したのは、大衆の愚かさだった。
    大衆は人間の集まりという意味です。一人や二人ではない組織、民衆のあらゆる階層階級を網羅した大組織、社会に一定の影響をおよぼし、動向を左右しかねない組織は、大衆の一部であり、大衆論理が適用される組織です。創価にはどれくらい会員がいるのか、はっきり分かりかねますが、公明党が大衆政党というくらいですから、創価も大衆宗教なのでしょう。
    創価の会員は現実主義者です。過去がどうあれ、今現在の姿勢を問うのであり、こういう考え自体間違いとは言えないけれど、現在は過去の積み重ねの上にあることもよく思案しなければならない。わたしたちの学びはすべて過去からのものであり、歴史からのものである。したがって、真実の歴史こそ、真に規範となるべき歴史です。

    民主主義とは機会の平等を約束するものですが、日本のような曖昧な寛容美徳が礼賛されるシステムでは、寛容は差別容認を意味するものと同義です。多神教文化は社会的な情報と内面的な情緒を共有することであり、不合理なことであってもそれを指摘する人間を排除するシステムです。無定見にフランス革命を礼賛する人間が多いのも日本システムの特徴です。自由・平等・博愛は、アンチテーゼとして秩序・格差・敵対を生み出したのであり、この反対概念を行ったり来り、どちらかに揺れるのがその後の歴史であったこと、民主主義は合理主義という裏パッチで支えられて、まるで不正を断罪する剣のように信仰されてきました。その主人公が大衆です。歴史経過には必ず反動があるのであり、合理主義に懐疑的に異議をつきつけて孤独を味わった勇気ある人々もまた生れて、結局ニヒリズムの深い闇をブラックホールのように発見するに至るのであるけれど、この真実の過程に無頓着な知識人が日本には溢れています。正統は正気であるということ。伝統は正しい歴史観に立った智慧でもあり、正しい目と心を持った人間だけが獲得することができるバランス感覚の真髄です。

    池田先生は、第35回SGI提言(2010年1月26日)で、ニヒリズムに言及しています。
    『今回私がスポットを当ててみたいのは、現代文明が行き着いた一つの位相、現代人が否応なく直面せざるをえないデクリネーション(衰勢)の時運――大まかに言ってペシミズム(悲観主義)さらにはニヒリズム(虚無主義)と総称される時代精神の有り様に関してなのであります。
    ニヒリズムというと、いわゆる “神の死” を契機にしたヨーロッパ的思潮に思われがちですが、東洋にも、ニヒリズムの系譜は数多くあります。しかし、そこまで話を広げる必要はなく、ここでは、グローバリズムの矛盾が露わになった荒涼たる風景の中、瘴気のように立ちのぼっている文明の病理の謂なのであります。
    日本においても、そのような傾向は、顕著に見られるのではないでしょうか』

    経済問題と科学技術に特記し論じていますが、科学技術と経済発展は近代資本主義を論じる上で不可避な領域です。

    『フランスの気鋭の論客エマニュエル・トッド氏は、金融主導のグローバリズムを評して、「社会のあらゆる足枷から『個人を解放する』ことを望みながら、貨幣とその蓄蔵を崇める中に安全を求めようと怯えて震えている小人をつくるのに成功したにすぎない」(「経済幻想」平野泰朗訳、藤原書店)と喝破しています。この「小人」の顔を表から見れば「マモニズム」(拝金主義)で、裏から見れば「ニヒリズム」であって、逆もまた真であります。(中略)
    グローバリズムの正の側面は当然のことながら、貧困や「格差社会」をはじめ負の側面を論じる場合でも、ほとんどがこの価値基準に依っている。そこからは、先行き不安な、ギスギスした、寒々としたうつろな響きしか伝わってこない。
    格差の拡大等は疑いようのない事実ですし、それを引き金とする犯罪や自殺に追い込まれるような事態は、決して放置されてはならない。このことは、第一義的には政治の責任として、これまでも繰り返し訴えてきたところであります。正義や公平性という人間社会を成り立たせているエートス(道徳的気風)を担保するためにも、法的、制度的なセーフティーネット(安全網)の整備を怠ってはならない。
    そのことを強調した上で、私が懸念するのは、そうした外的・物質的条件の整備は、事態への対症療法にはなっても、根本療法にはなりえないのではないかということであります。「対症療法」を下支えし、それをより確かなものにするためにも、精神面からの裏打ち、つまり価値観の転換が必要なのではないか』


    欲望の無限拡大に警鐘を鳴らしていますが、近代における大衆の定義は、この経済的欲望と利己主義、自分の意志を押しつける精神的未熟さ、他者への配慮を欠いた支配層としての大衆であり、豊かな社会を標榜しながら生の実感に乏しい大衆を言うのです。オルテガは、自己懐疑という人間の特権を忘れた大衆を嫌悪し、「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとするところにある」(大衆の反逆)としている。大衆を負の意味で定義しているのであり、トッドの「小人」と同類の「文明の再野蛮化」に加担する人々です。優れた価値を求めて生きるのが人間なら、本質的な生命の満足を省みない大衆に悲愴なペシミズムとニヒリズム、「生の不安」の病理を見るのは当然の帰結かもしれない。したがって、危機のなかの殉教者・英雄は精神的本源の位置からすべてを作り直さなければならないのであり、それがどれほど不可能に近いか。世界を冷静に観察している人格者は孤独のなかで高貴さを堅持しているのです。

    『近代文明、とりわけ近代資本主義というシステムは、例えばマックス・ウェーバーが分析したように、プロテスタンティズムの倫理というブレーキとハンドルが作動することによって、辛うじて欲望が制御され、安定した人間生活を保障してきた。換言すれば、何のための勤勉か、何のための努力か、蓄財か、といった価値観からの問いかけが日常的になされていた。それによって、人間精神、人間生活のバランスが保たれてきました。ハンドルやブレーキが機能不全に陥ったらどうなるか――ウェーバーの言う「心情のない享楽人」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳、岩波書店)の横行であり、昨今指弾されている「強欲資本主義」などは、その末期症状といってよい。欲望や知能の独り歩きであり、そういえば、今回の金融危機を招いた信用バブルの背景には、投機性を至上視したデリバティブ(金融派生商品)市場の拡大などがあり、その開発には最先端の金融工学が駆使されていたという。金融市場のカジノ化に熱中した人たちの脳裏に、果たして「何のため」という問いが浮かんだでしょうか』

    際限ない欲望にとりつかれ、経済を崩壊の危機にさらした知識人も愚かなる大衆の一部ということでしょうか。健全な常識とか、ヒューマニズムとか、協調とか、卓越した知性とか、多数との共存とかは幻なのでしょうか。豊かさとか繁栄とかは、人間が人間らしく生き、死ぬための一過程、手段なのではないでしょうか。

    先生は、創価とは価値創造の謂いであるとしながら、仏教にその解決のヒントを求めます。

    『それは、ニヒリズム、価値空位時代に楔を打ち込み、近代文明の暴走に対して、ハンドルやブレーキの機能を回復させる人類史的挑戦であるというのが、私どもの深く期するところであります。
    (中略)
    学問に王道がないように、「善」の道にも王道はない。現実に身を置き、あえて苦難に挑戦しながら、不断の精神闘争の溶鉱炉の中で、徹底して己を鍛え上げていくしかない。そこに「善」を成就させゆく直道が開けゆく。マルセルの言うように、「状況の特殊性と法の普遍性との間には常に必ず緊張が存在している」「この緊張そのものこそ、価値の原動力」(「マルセル著作集6」小島威彦ほか訳、春秋社)だからであります。「不断の精神闘争の溶鉱炉」と「緊張そのもの」とは同義語といってよい。そこに、仏典の「浅きは易く深きは難し」「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」(御書310ページ)との金言が不磨の実践規範としての輝きを放ってくるのです。
    (中略)
    オルテガ・イ・ガセットは、そうした「不断の精神闘争の溶鉱炉」の有り様を「歴史的生」として次のように活写しております。
    「わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。わたしは逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬において逡巡し、一カ所で足踏みし(piétine sur place)、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、あのまごう方なき不安と戦慄を与えているのである」(「大衆の反逆」神吉敬三訳、筑摩書房)
    この「哲学的逡巡」とは、優柔不断とは似て非なるもので、固定観念を排し、「まごう方なき不安と戦慄」の緊張感の中から「善」を探り当てる力の源泉を意味します。
    釈尊の初転法輪の際の“梵天勧請”の説話が想起されます。――成道の後、その悟りの甚深、微妙で知り難いため、釈尊が説法を開始するのを躊躇、逡巡していると、梵天が現れ、苦しみ悩む人々のために、説法を勧め、請うた。それによって初転法輪が成った、と。オルテガのいう「哲学的逡巡」は、釈尊の躊躇、逡巡とどこかで響き合っているはずです』


    さらに、自己内対決、自己内対話を経て、他者の復活、他者との対峙・対話の要請の重要性に目を向けます。
    『周知のようにオルテガは、「他者」との共存が、「野蛮」と決別する「文明」の絶対要件としていました。そして、この「他者性の尊重」「他者性の習慣化」ということは、かの凍てついた旧ソ連の政治文化に言論や対話の力を劇的に復活させたゴルバチョフ元大統領との対談集(「二十世紀の精神の教訓」、「池田大作全集第105巻」所収)で、親しく語り合ったところであります。
    先に「個々の人格にかかわらざるをえない善悪の価値感情を拒絶」するのがニヒリズムとしましたが、その意味からも「他者」「他者性」の復活は、価値感情欠乏症の時代を切り開き、「善の価値」「善の言葉」を復権させゆく直道であると、私は信じております。
    「月月・日日につよ(強)り給へ」とは、そのニヒリズムの超克、価値創造の労作業への無上にして無比の促しなのであります』


    苦からの超克を諦める浄土思想に見られる現世否定、救済を他者に依存した悪性の思想は、ニヒリズムの根源とも言えそうですが、東洋だけの精神の負の遺産ではない。西洋にも原罪という魂の廃墟があるのです。そのニヒリズムを、ニーチェは超人の生まれ変わりで超えようとしたのであり、文明の死を予言し永続的な進歩などあり得ないとしたシュペングラ―の運命論、「西洋の没落」では、無目的に人生を歩み、仏教が説くところの生物の基本である四苦というベーシックな概念すら理解していない日本人に向けたメッセージでもあると、わたしは考えます。また、21世紀に入っても避けきれない戦争はますます激しくなり、規模の大きさ、被害の甚大さ、国家エゴイズムの肥大、という脅威が脅威を生み続ける悪循環は、欲望を制御できない修羅の悪夢であり、その裏には価値感情の希薄と欠乏が指摘されるのです。
    人間はそもそも孤独です。一人で生まれ一人で死んでいく。他者のなかに自分を居場所を発見しても、些細な行き違いで破綻の危機に陥ります。不信はやがて絶えない葛藤を経験しながら、ニヒリズムという泥沼に落ち込みます。近代の西欧の知識人の系譜は、ニヒリズムの指摘と克服にありました。人間の「間」のつながりは、多数派、つまり権利要求としての大衆の欲望実現装置として機能しているように感じられるのです。政治的イデオロギーが皆無に近い日本にあっては、無党派という市民の要求に応えなければ政権の維持は不可能です。そしてどれだけ利己的な欲求に時間と経費を費やしているか。大衆は孤独であるがゆえに、ニヒリズムという衣のなかで深い悲哀を感じていると、わたしは推測するのです。人間信頼という宗教は、今後ますます、魂の汚れを回復するような朝露のような清純さで、命の疲れを癒し蘇生させる根源として必要とされ、啓蒙されていくことでしょう。

    ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

    「ニヒリズム」(社会学小辞典:有斐閣)
    判断や行為の基準としての積極的な価値をいっさい否定する思想。これは、一方で、無為の消極的・退行的態度をひき起こすが、他方、既成の道徳や制度にこの思想が向けられるかぎり、伝統破壊の積極的エネルギーとなることもある。この意味で、近代・現代西欧では、ニーチェ、ショーペンハウアー、実存哲学などを通じ、ニヒリズムが鋭い批判意識を担ってきたが、反面、社会的・政治的には、無力感・絶望感からの遁走としての能動的ニヒリズムがファシズム・イデオロギーの基盤を提供することにもなった。


    #2
    ジェンダー理論は大聖人の深い叡智に完結している。それをどう解釈し、発展させなければならないか、創価の知識人としての力量が問われています。創価が戦後、急速に拡大したのは新しい解釈を提示したからであって、理想とされる人物像も先生自身が体現し人々の眼前に現れたからです。時代に付与する解釈の斬新さが閉塞する社会の現実を切り開くのです。知識人と言われるスペシャリストがその役割を担っている。コスモポリタンと言う前に、言語が持つ本来の力を復活させる.........言い方を変えれば、浅薄な意義づけに終止している市民社会の指導原理を主体者である人間に取り戻すべく価値転換をはからなければならない。価値あるものへの願望が歴史を動かしてきたのです。それは本質的にして普遍的な善への衝動でしょう。オルテガは「大衆の反逆」のなかで次のように述べている。

    『われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術を持ちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間に漂っているのである』

    自己が自分の主とはブッダの言葉。ギリシャ哲学も、疑いのなかから、疑えない自己を発見した。無知という深い海中で自己像という宝物を発見したのです。大海と同じ海水が心の海にも満たされています。無限に広く無限に深い心の海で、自分そっくりの自己像を発見する方法と場所をブッダは示しました。実現能力とは殻を脱ぎ捨て、新たな自己像を描く能力のことです。
    現在ほど覚醒し鮮明に言葉を操り、意義を見出す作業が必要なときはない。その役割は誰が担うのだろうか。

    なぜ自分が立つ土台を安全なものにしないのだろうか。自分が拠り所とする賢明なる大衆に懐疑を抱かないのだろうか。現実的な男女の性差を問題にしながら、リアリティーに欠けると感じるのは、自らのアイデンティティーでもある所属組織に対し主体的視点を欠いているからだと考えるのです。固有の自覚した自己の集まりが創価ではないか。目覚めた集団が創価ではないか。人間の尊厳と高貴さに最大の敬意をはらうのが妙法の使徒ではないか。精神的沼地から自他の悟りという実践的知識の深い花を咲かせるのが、創立者が訴えるそれぞれの使命なのではないか。
    なぜ、副会長クラスに女性がいないのか。末端でも支部長や地区部長に女性が登用されないのか。青年部長に一人でも女性がいるのでしょうか。また宗教法人として役員のなかに女性がいるのかどうか。人事は組織の要であり一般から認識される顔です。足下の問題を見つめないで、どうして創価のメッセンジャーたりうるのでしょうか。創価が男女平等・同権を主張するなら、それは人事に反映されるはず。さらに結婚を機に本部職員の退職を余儀なくされるのは、どう考えて時代錯誤です。経済力がある男性と結婚しなさいという暗黙の了解があるのですが、もちろんそんなことは表だって言いません。それを疑問なく受け入れる女性たちも愚かなる大衆ということでしょうか。ジェンダーは権利を貫き、義務をはたし、現実においてそれを達成することです。男性原理だけではもう何も解決しないのです。


    #3
    訪問は一人でする。それが基本です。1対1の対話が対等の立場であり、自分を磨くためにも、また相手の考えを聞くにも最良ですが、創価では2~3人のグループを作って訪問するのを常とします。集団で行動すれば、渡る世間も恐くない。責任も分散される。でも正しくない。
    また、アポイントをとり訪問するのが常識。訪問相手が困ろうと嫌がろうと、良いことなのだから許されると考えるとしたら、妙法で戒める増上慢の謗りを免れないでしょう。昔と今は違うのですが、そのような社会常識に対しての認識が甘いことをよく反省しなければ、いずれ創価は迷惑集団として社会から阻害され排除される。そしてその原因を作ったのは自分に他ならないのですが、反対や非難に会うと、魔や難だと騒ぎ立てる愚かしさ。わたしはそんな愚かな一員にはなりたくないし、どうか仲間にも誘わないでください。
    会員の、また菩薩の聡明さとは、手段の選択にかかっていることをよく思慮しなければならないでしょう。目的は正しくてもその手段を行ずるときは細心の注意が必要なのです。相手を気遣う心と節度ある礼儀こそ、誤解を招かない円滑な人間関係を築くための基本です。

    罰などとよく会員は自虐的に口走るけれど、これは仏法破壊の極悪人に支払われる代価です。宿業のバランスシート(トインビー博士)で言えば、自己否定の根源的負債から現われるプロパティーです。また複雑な蓋然性の影響が大きいことから、多くの信者を大御本尊さまから遠ざけた日顕という悪人が罰を受けないで人一倍長生きしたのはこのためです。しかし、正法による行為(人生)の再構築がなければ、生命に刻まれた因果の傷は消え去ることはありません。
    妙法との出会いという稀にみる幸運を、幸運と感じられないところに不幸があるのかもしれません。
    創価では絶対的幸福とよく言いますが、これは絶対的幸運の意味なのではないか。
    もちろん、絶対的なものがあると仮定してのことよね。


    #4
    Set Fire To The Rain Adele

    前の恋が終って傷ついてた時
    あなたが声をかけてきた
    打ちひしがれて落ち込んでたのに
    あなたのキスで救われた
    強い人間に見えるけど
    好きな人には逆らえなくて
    抱きしめられると
    もう何も言えなくなった

    だけどいつしか私の知らないもう一人のあなたがあらわれた
    口にするのはでたらめばかりのウソつきで
    いつも私を追い詰めて、傷つけそして苦しめた

    でも私は涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その涙はみんな燃やした

    あなたを想う涙だったから一緒にベッドにいる時は
    ずっとそうしていたかった 眼を閉じて
    あなたをそばに感じながらずっとこのままと祈ってた
    一緒にいるだけ、それだけでいい
    だって私の知らないもう一人のあなたは
    口を開けばでたらめばかりのウソつきで
    いつも私を追い詰めて、傷つけそして苦しめたから

    だから私は涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その涙はみんな燃やした
    あなたに向けた涙だったから
    涙の雨に火をつけて
    その炎で2人の思い出も燃やしてしまった

    恋が終ったら何かを失うもの
    だってそれは過去のこと
    もう終ったことだから

    朝、ドアの前で目覚めることもある
    あの時の気持ちが今でもまだ残ってるから
    もうすっかり過去のことなのに
    今でも気づくとあなたの姿を探してる
    あの時、涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その時の涙はみんな燃やした
    あなたのための涙だったから
    涙の雨に火をつけて
    その炎で思い出も燃やしてしまった

    恋が終ったら何かを失うもの
    だってそれは過去のこと
    もう終ったことだから
    だから苦しみは燃やして
    消してしまおう
    跡形もなく


    「雨に火をつける」という発想はなかなか浮かばない。アデルは詩人。音楽的才能はとてもうらやましいぐらい。美しい声は、きっとボリュームある体から出てくるんですね。でも、男運は悪いみたいだし.........わたしが心配することでもないけど。
    梅雨の季節、涙の雨に火をつけて、苦しみを燃やし尽くしたい。






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    Comment

    ポラリス | URL | 2020.07.26 23:47
    ハイサイ、ご無沙汰しておりました。哲女一気に読ませていただきました。前に比べて少し理解できるようになったのは自分の境涯が高くなったと思ったら、そうではなくてアンナさんが分かり易く書かれていることが分かりました。私が心肝に染めている「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と「心性を観ぜされば」そ法なりを引用されたのはびっくりしました。今の学会員は心性を観じてないと思います。私は今、除名された方と接点があったということで、役職を解任され、協議会参加だめ、会合を個人で開くのだめの処分を受け、私との接触禁止の指示が出ているみたいです。私は大御本尊と先生さえあれば組織はいりません。時の戒壇である正本堂を破壊した宗門、大御本尊を授受しない学会、世の乱れを利用して民衆の危機を煽る顕正会、それらは邪教だと思っています。縦の組織ではなく、一人一人が自立した信仰者とゆるやな横のつながりで、人間革命と平和な地域社会を築いていこうと思います。ヨロシク!


    アンナ | URL | 2020.07.30 17:25 | Edit
    コメントありがとうございます。
    放置ブログのため、コメントがあったなんて気づきませんでした。
    申し訳ありません。責任放棄ですね。
    リコメも期待されていないかもしれませんが、まだ少し使命感も持ち合わせておりますので、遅くなりましたが、ご返事させていただきます。

    書いた本人がすっかり忘れているのに、よく覚えていらっしゃいますね。それだけ読んでいただいているということなのでしょうか。小難しいことを書き散らすブログですので、あまり深読みなさらないようにお願いします。適当なのが一番です。
    ミーハーな部分が大いにありますので、調子に乗って、偉人の言葉を再掲させていただきますと、ゲーテは「イタリア紀行」で述べています。
    「ぼくは相変らず同じ人間ではあるが、最も内奥の骨の髄までも変化したつもりである」
    「私を内奥から改造する再生の働きは、絶えず私に作用している」
    「私はほんとに生れ変り、新たにされ、充たされている」
    教訓に満ち溢れた創価の会員にピッタリのお言葉です。
    ゲーテの自己発見と自己形成の旅はロマンに満ちています。ヒューマニステックな現実認識は、仏法で説く人間主義のベーシックな基盤をなすものでしょう。つまり不屈の楽観主義に貫かれた行動こそ正しいのですが、それは人間愛に満ちた人格でもあります。

    ヤング男子部、ヤング壮年部、ヤング高齢者?、創価は命名が大好きな組織ですが、言語的行為は宗教的行為の予告みたいなもので、所属をきちんとしないと指導も行き届かないと考えているフシもあります。もう人材不足が顕著なのに、創価には担当や係の数が依然として多く、真面目な会員は兼務が当たり前で、それも義務的な負担を強いることを、池田先生の名のもとで正当化しています。ピースをはめ込むように組織にはまってしまうと、返って自由を失うという見本のようなものです。もちろん、信仰本来の目的と真逆であっても、会員はいっこうに考えようとしません。組織には組織のルールがあるのは当然ですが、ルールのために組織があるのではないことをよく考える必要があるでしょう。

    新型コロナのために学会活動も停止状態ですが、わたしたちはコミュニケーションの取り方を、もう一度考え直さなければならないチャンスを与えられたとポジティヴに捉えることが必要と思います。人間関係とか、信頼とか、人間同士がつながる動機とか、今まで考えているようで考えていなかったことを深く考える良い機会に恵まれました。

    自主的に参加している創価のなかで、誰一人余分な人はいないし不必要な人もいません。たとえ批判的な人であっても、創価のなかではかけがえのない大事な人。根本は同じでも、考え方や見方、表現の仕方が違うだけだからです。苦労や楽しみを分かち合う家族でさえ、時には意見の対立があるのではないでしょうか。同じように考えることを強要する社会や組織は大変に危ういものです。問題提起のあり方も解決へのアプローチも、それぞれの境涯や立場に応じて多様であるのが健全です。

    一日も早く、平穏な社会と、信頼を醸成する人間組織が実現できますように、祈るだけです。
    ポラリス | URL | 2020.07.30 21:56
    ハイサイ、今の創価は新聞と選挙と財務しかないので非常に居心地がわるいので、誰も行かなくなると思います。人は居心地が良いのと、自分の居場所があれば参加するのです。特に婦人部は何時間題目上げたとか、何部啓蒙したとか、本当につまらない話ししかしません。私は本当に苦痛でした。アンナさんのようなゲーテの話をするのは皆無ですし、幹部もろくな指導しかできません。新来者呼べません。以上 ヨロシク!
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