哲女のメモ 5

    #1
    以前から、手に入れたいと思っていた本がありました。
    有名な『ブッダチャリタ(仏陀の生涯)』(馬鳴著)ですが、講談社版の「原始仏典」シリーズの10巻目、発行は30年ぐらい前で、絶版になっているのです。現在、中公文庫で大乗仏典シリーズの一冊として発売になっており買いましたが、翻訳が読みづらく、訳に忠実であろうとするのか、文学的香りも感じられない。それに現存するサンスクリット文を底本にした訳出なので、二十八章あるうちの十四章までしかなく、全体があきらかでないのです。講談社版を図書館で読んでから欲しいと思っていましたが、偶然古本屋で見つけ、さんざん迷った挙句買いました。わたしにすれば、大変高価な本になってしまいました。お金に関しては、節約委員会公認のケチです。つまり信仰と同じくらい執着も深い。
    30年前の定価で2200円ですので、そもそも高価な本であることは変わりはないのですが、古本屋での値札は9500円。はじめ0が一つ多いのではないかと思い、
    「この本、0が一つ多いのではないでしょうか」とご主人にたずねたら、
    「いいえ!」と、怒ったように、素っ気ない返事。
    取っつきにくいのがこの業界の常識。あんたに本の価値がわかるか、と言いたげな軽蔑があるのよ。
    大体、商売人というより、本の考古学者的雰囲気。マニアックな世界だし、シャイネス可らしさの篠川栞子も登場したけど、おもしろそうなミステリーなんて本のなかだけだし。
    どうせ売れないくせに、と思いながら、30分も立ち読みしてから、わたしとしてはおもいきり気前よく、大好きな福沢諭吉に別れを告げ、本のうえにきちんと重ねて、カウンターに持っていく。
    「買ったら、成仏できますでしょうか。ご主人さま」と皮肉半分、ニコニコしながら言ったら、
    「本で成仏はできません」と、もっともなご返事をいただきました。
    「最近、多いんですよ。哲の女らしきご来店が。でもこんな高価な本は買わない」
    わたしって、もしかしたら哲の女?
    哲の美を認めてるっていうこと?
    さきばしりの考えすぎは健康によくないわ。
    「ご商売繁盛でよろしいですね」
    「本の価値は読む人間が決めるものだ。これはおもしろいし、市場に出てる数は少ないし損はない」
    「読まれたのですか?」
    「目次だけね」
    「目次からおもしろいなんて、たいした本だわ」
    ご主人は大笑いしました。
    「まけてよ。ご主人さま!」
    結局、500円オフしてくれました。外交力の問題よ。オブリガード


    と苦悩
    誰もすることを欲し、されることを望む。
    失意のときでも、悲しみのときでも、絶望のときでも、どんなに辛い瞬間のときにも、支えとなり、欠点だらけのわたしの全人格を受け入れしてくれる人を、わたしもすべてを捧げてしたい。
    青年シッダールタは、成就することない愛に悩んだがゆえに、愛することの根源を知りたいと考えたに相違ない。深い地底から掘り出された宝石のように透明な知性と、濁りがない聡明さ、遠い景色のなかで葉が落ちる音さえ聞き分ける繊細さと、また人間として無二の優れた資質と獅子のような勇気を持っていても、愛の呪縛と苦しみからは逃れられなかったと、わたしは思う。
    彼が出家したのは、個人的動機が多くを占めているように思えてならない。愛を捨てて、自分を苛み続けた苦行の果てに覚者となり、普遍的愛に目覚めた。

    インドの北辺境、ヒマラヤの高峰を背に位置するシャカ族の小国は、気候風土に恵まれ、雪解け水を利用した稲作を中心とした平和な農業国として栄えていた。ただ王家では後継者となる王子誕生に、未だ恵まれないのが憂いの種であった。
    シッダールタは、シャカ族の都・カピラヴァストゥ(カピラ城)のシュッドーダナ王(浄飯王)と、隣国コーリヤ族から嫁ぎ、妃となったマーヤー夫人との間に、長子として生れた。
    伝説によれば、ある夜、マーヤー夫人が寢殿で眠りに入ると不思議な夢を見たという。天から六牙の白象が降りてきてマーヤー夫人の寝床のまわりを三回右に巡ると右脇から胎内に入ったという。
    翌朝目覚めた王妃から、夢の話を聞かされた王は、国中の賢者バラモンたちを呼び寄せ、儀礼を施し夢解きをさせると、
    「王妃は受胎されました。きっと男子で王となられる方でしょう」と告げ、
    「王子は在家の生活をおくるなら転輪聖王となり、もし出家するなら悟りをひらきブッダとなるであろう」と予言した。
    王妃の懐妊に、国中の人々が無限の光明と喜びに満ちたと伝説は伝える。ブッダの霊夢托胎は、伝説にもとづいて具象化され数々の名品が生れるその後の仏教美術のテーマとなった。
    懐妊したマーヤー夫人は、月満ちて出産が近くなると故郷コーリヤ族のデーヴァダハへ里帰りしたいという思いにかられ、シュッドーダナ王の承諾を得て旅立つことになった。旅の安全を願い入念な準備をととのえ、王妃は輿に乗り、侍女や大勢の従者を随行した。
    道の途中にルンビニー園というサーラ樹に覆われた森があった。マーヤー夫人が訪れたとき、枝の端々まで満開の花が咲き、蜜蜂が群れ、様々な鳥が美しい声でさえずり、まるで帝釈天の遊園のようであったと伝えられている。
    この美しいルンビニー園に魅せられたマーヤー夫人は輿を降り、森のなかに進み、赤色や黄色の花びらが蹴鞠のように咲きほこる無憂樹(アショーカ樹)に近寄り、垂れ下がる枝を手にした。
    そのとき、陣痛がおこり、マーヤー夫人の右脇腹から男子が出生した。
    争いを続ける人類に、絶えることない聖水と消えることない光を灯し、アジアと全世界に希望を与えるブッダの生誕は、紀元前四六三年のことです。(中村元博士説)

    当時のシャカ族の社会においても、バラモン教の影響が色濃く存在し、四姓制度の「浄、不浄」の観念が強く働き、女性の生理、懐胎、出産などは不浄とされていた。出産を間近にひかえての旅は危険な行為であり、それを敢えて行ったということは、王宮での出産によってもたらされるけがれを避けるためにも、出産の場を故郷に求めたと考えられる。

    ルンビニー園での出産を無事終えたマーヤー夫人は、誕生間もない王子をいたわりながら、シャカ族の都・ピラヴァストゥへむかい帰路についた。王子誕生の知らせを受けて待ちわびるシュッドーダナ王や都人は、シャカ族の後継者の帰城に歓喜と感動の渦につつまれた。嫡子誕生に喜びあふれる王は、バラモンたちを招き、法典に従い命名式が行われた。王子は「目的を達成する者」という意味のシッダールタ(悉達多)と命名された。

    喜びもつかの間、悲劇が訪れた。王子の生後わずか七日にして母・マーヤーが亡くなってしまったのです。
    希望に満ちあふれていた父王も幼い王子の行く末に心を痛め、乳母を選び養育にあたらせる一方、亡き妃マーヤーの妹マハープラジャーパティーを後妻に迎えいれた。そして後に誕生した異母弟・ナンダとともに、シッダールタは養母・マハープラジャーパティーによって愛情を注がれ大切に育てられたと、伝承されている。

    シッダールタの出家動機について、多くの文献はよく知られた四門出遊の伝承を伝えている。「ブッダチャリタ」の「死者」を見る場面では、

    『そのようにして王子が進んでいったとき、かの神たちは一人の死者を創り出した。道を運ばれていくその死者を御者と王子は見たが、他の者は見なかった。
    そこで王子は御者に言った。「四人の人に運ばれ、悲しげな人々に付き添われていて、飾られてはいるが嘆かれているあの者はだれなのか」
    そのとき、御者の心は本性が清浄なるかのシュッダーディヴァーサ神たちによってとらえられていたため、事実を知る彼は言うべきではなかったことも主人に述べてしまった。
    「この者は、だれかはわかりませんが、知性、感覚、息、さらにもろもろの性質が無くなり、眠っており、意識なく、草木となってしまったのです。愛する人々により努力して育てられ、守られてきましたが、今捨てられるのです」
    この御者の言葉を聞くと、王子はすこしたじろいで言った。「これはこの男にのみ起こることなのか。すべての生きものの終わりはこのようなものか」
    御者は王子に答えた。「これはすべての生きものの最後のありさまです。卑しいものであれ、中位のものであれ、偉大なものであれ、この世においてすべてのものの消滅は定まっております」
    王子は堅固な心の持ち主ではあったが、死のことを聞くとたちまち心沈んでしまった。彼は馬車の欄干の先に肩でもたれかかり、震え声で語った。
    「これが生きものに定まった帰結なのに、人は恐れず平気でいる。このように死への道にありながら安閑としているのだから、人の心はかたくななものだと思う。
    だから、御者よ、われわれの馬車をもどせ。園遊の時でも場所でもないから。消滅を知った以上、心ある者がどうして今この破滅の時に平気でおられよう」
    王子は御者にこのように言ったが、御者は馬車をもどさないばかりか、王の命令に従ってパドマシャンダという名の森に進んだ。そこでは特別の趣向が用意してあったのだった。
    そこで、王子は、若い樹が花をつけ、コ―キラ鳥が喜びに酔って飛びかい、館があり、池は蓮の花で麗しく、あたかもインドラ神の森ナンダナのように美しい森を見た。
    そして、王子はむりやりに美しい女たちの群がる森の中に連れていかれた。ちょうど誓戒を受けたばかりの隠者が、禁欲生活への障害となることを恐れながらも、美しい天女に満ちたアラカ―国の主クーベラの宮殿に連れていかれたように』


    優れた詩人であったと伝えられている馬鳴は、修辞家らしく文学的才能を遺憾なく発揮して、十分な言語的装飾を施しながら、ブッダの生涯を華麗に描きます。史実を伝えるというよりも、神格化されたブッダの姿が、尊敬と信仰の対象であったことが理解できます。馬鳴はブッダの生涯に関わる伝承や思想に深い造詣を持ち、文学作品といっても、経典に伝えられるブッダ像からは逸脱していない。

    個人差はありますが、普通の人間は苦しみや痛みに鈍感なのではないでしょうか。わたしたちは自分に直接関係がない社会のあらゆる不合理、他者の苦しみは感じないようにできてるらしい。だからこそ生きられるのかもしれません。わずかなショックでも振れる敏感な感度の持ち主が、正常な人間とは思えませんが、苦しみの度合いが深くても、克服し解決する強靭な精神を保つことができれば、覚者への道は近いと言えそうです。苦しみが地層のように複雑に重なりあいながら地上を覆っている現代に、ブッダが生まれ会わせれば、苦の感じ方も違っていたかもしれない。人間にとって現世は有限であるけれど、普遍的苦は、普遍的であるがゆえに、永遠に消滅しない。不可知論は釈尊が一番嫌悪し、無記をもって答えとしました。過去世や未来世など証明できないことは、信じるしかない。

    ブッダの四門出遊は後世の創作ですが、このように他者のなかに自分の苦しみを見い出すことは、ブッダなら可能だったと思わせる十分な説得力があります。
    『自らが老い、病になり、やがて死ぬことを深く認識する故に、老いた人、病者、死者を嫌悪しないのです。苦しみをともにし、喜びをともにし、ともにあることを歓ぶのです。ブッダはそのことを、若き、健康な、生のただ中に見たのです』(『ブッダは歩むブッダは語る』友岡雅弥著・第三文明社)
    ブッダの宗教的天分は繊細な精神のひだのなかで熟成され、真理を掴んだ。「ブッダチャリタ」はそのことを文学的香り豊かに、一つの物語として、高級な大衆向けに編集したものと思います。神格化と大衆化は同時に進行するんですね。永遠の指導者に対する創価のコマーシャリズムに溢れたアドバタイズメントは、宗教団体の変質をよく表しておりますが、企業のセールスプロモーションのようにも見えたり、キャンペーンのように見えたりするのも、以前には想像すらできないことだったでしょう。会員教育よりも組織の利潤に重点が置かれているからでしょう。
    『ブッダは歩むブッダは語る』は少し読みづらい本ですが、貴重な本であることは読めばわかるでしょう。引用されている思想家・哲学者など、賢者の言葉がとても深い内容を示唆していると感じられ、きっと渉猟していたのだろうと本好きのわたしにはわかりました。
    この本を、友岡氏が第三文明社から出版したことが本当に良かったのだろうかと考えてしまいます。わたしが買った古本は、定価の倍ぐらいの値段が付けられておりましたが、出版されて20年も経っているのに、需要もそれなりにあるということでしょうか。その後、第三文明社からこの本をしのぐ出版がどのくらいあったのだろうかと勝手に危惧する次第です。求道者の姿勢を個性的に示した友岡氏は、カリスマ指導者の巨大なドグマの影響をまともに受けていたのかもしれない。また創価流の世俗的な宗教営業に、惰性に陥った信仰の幻影を見ていたのかもしれない。聖教を見ればよくわかるでしょう。会員が忘れないように定期的に、脚色された過去の歴史がまるで目の前でイベントを開催するかのように、毎年同じことを繰り返していることを、懸命な会員なら見抜いているはず。意図的に習慣づけられた活動こそ害毒です。創価は多くの有為な人材を犠牲にしている。
    「馬鳴菩薩伝」(https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/JT2046.pdf)


    #2
    実生活での仕事や学業などにおける評価は大切ですが、信仰上における評価はさほど気にかける必要ないと考えるようになりました。信仰でなくても最良の結果を望むのが行動の帰結というものですが、成果という言葉に言い表わされる結果など、組織の都合以外ありません。マイ聖教に多くの会員が疑問を持ち始めているのに、十分な根拠を示さないままです。啓蒙のおしつけは偽善の影絵のような厚かましさ。美しいけれど、光に照らされれば儚く消える、サプレッション(抑圧)の詐術です。
    指導性は簡単に言えば哲学です。それは自由選択を前提にしたものでなければならないと思います。わたしがこういう指摘をすると、今まで自由だったし、これからも自由だというオウム返しのような答が返ってきます。創価に限らず、組織に加入すれば、誰でもそれなりの自分の居場所と自由な発言権を得たいと考えます。その権利の前提となるのは、活動家であるかどうかということです。マイ聖教は活動家と認知される名札のようなものですが、そのように活動家の定義を誘導してきたのが、今までの指導であったこと、悪しき習慣の正体は単に部数減への恐怖以外にないこと、それにともなう宗教団体としての経営的経済的理由があるからと思います。自由は、自由を誇称しながら無言のうちに、心や気持ちを束縛し負担をかけることではありません。
    大事なのは個々の意思であり、信仰への情熱であり、確信であり、不完全人間が不完全評価をしても意味がありません。創価の中心者である年長者は必然的に生活知恵があり、経験から複雑な正邪や善悪の区別を知っていますが、一方で、保守的になるがゆえに、賢明でない打算的な評価法も選択します。地位ある者は特にそうです。面倒なことは避けたいと考えるし、波風を立てなくても組織は十分機能していると思うのです。
    創価のなかにも幸せでない人はたくさんいます。その原因となる苦の実体と、自分を縛る旧価値観からの解放、善悪の弁別、問題解決への心的アプローチの論理的、具体的説明をすることなく、ただ一様に宿業論でかたづけてしまう愚かな指導が見受けられます。それは自分の言葉で語らない聖教コピーの凡庸な幹部の指導力と、社会一般に経済的困窮が深まるなかで、世俗的な価値判断の影響をうけて信仰上の確信が薄らいでいるからだと思います。信仰に必要なのは新しい自分を発見することであり、オリジナルな想像力を発揮することです。
    宗教の絶対性への帰順は、会員の熱心さと純真さに支えられた活動が、組織への当然の献身と考えることから始まります。それが実は自由を奪う犠牲というものだと知れば、理性をマヒさせる宗教性は、ただ従うこととする悪の側面がおのずと見えてきます。布教も会員の経済的支援も、善意と正義が合体した強固な釈尊以来の伝統的使命に支えられていることに、つつしみ深い感謝が忘れられている。
    厳格な修行を求めた原理主義者・提婆達多は、師の化導の本心を知らず敵対しましたが、戒律もまた方便であることに気づかないまま、手段の目的化というスパイラルに陥りました。同じように宗教団体においては、成果という言葉はこの手段の目的化と同義語でしょう。またサンガ内の階級化が仏道を曇らせる原因になることも、釈尊はよく知り抜いていました。階級化とはつまり教義の独占化であることを、宗門問題ではからずも経験しました。以前、創価でも主師親の三徳具備の池田先生という指導がありましたが、師弟関係を腐らす無盲目な礼賛は神格化と同じということ、法に依らず、人に依る行き過ぎた解釈が、教義の独占化ということです。宗教であれ政治であれ、唯一者の独裁は競争と破壊という精神の退廃をすすめるだけ。「価値判断能力の衰弱」(ニーチェ)は過剰な賛美のうえにベールを被って鎮座する。時代趨勢に対しての鈍感さ、ある程度の信者を獲得すると保守的なサンガ維持に転じることなど、昔も今も変わらないのです。

    人間の無謬性などありえません。正しい法を生活規定にしていても、誰でも間違いを犯すのです。正しい容器(善)を所持しながら、濁った水(悪)をそそいで疑問に感じないのです。大聖人ですら、長く激しい闘争のあとで、「其罪畢已」と自らの宿業を認められました。消し難い正法誹謗の罪を背負った者が、どうして無謬であるなどと言えるでしょうか。
    釈尊が洞察した通り、人間だけでなく、組織も渇愛の欲望で苦しむなんて、妙法においても戒律が必要なのではないでしょうか。妙法が最高智であれば、自己規律も最高規律でなければならない。さらに末法が貪欲と五濁の悪世なら、利己的現世利益主義と少欲知足は正反対の姿勢ではないでしょうか。宗門に対し少欲知足でないと批判するなら、学会僧(職員)も組織もまた、少欲知足でなければならない。
    「法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり」<御義口伝>
    見えない心を見抜き、心の声を聞き、正しい判断ができる功徳は、誰もが望む信仰のエッセンスです。会員の心を知らないということは、一体、どこから変化し、どこから堕落したのでしょうか。
    仏教の民衆化は、二千年前も今も、在家信者の願いです。その在家が帰依した大乗思想は、方便の無限拡大を招きながら複雑な理論へと発展し、発祥地において滅びるという歴史に出会いました。平易な祈りと生活知恵を求めた民衆のための教育的救済法でありながら、結果として民衆遊離というジレンマに陥った歴史の教訓は、同じ過失をおかす危険を絶えず内包していることを教えています。
    釈尊が説いた仏教思想は、「苦を滅す」というシンプルなものだったのではないでしょうか。その目的である自己救済は、釈尊の時代も現代も変わりなく難しい。  


    #3
    思慮に富みながら偽善的な、論理の撞着にも目もくれずに、言いたいことを遠慮なく言えるのがネットの熱狂世界です。したがって適度な冷静という自己コントロール力も必要と考えております。
    そんなネットでも、根気よさと情熱があれば適時な話題とテーマを提供することができます。種々の混乱が錯綜している時代に、問題意識の共有はとても大切なことと認識していますが、同志というのは問題への関心と洞察を補うあう相手と思います。キーワードはソフトパワーと対話です。このような言葉のチョイスは適切ですし、仏教の理念にも適うもの。
    主張しながら譲り合う謙譲の人々が、正常な信仰者のイスに座ることができますように。
    悪の支配を防ぐために、信仰と理性の勝利のために、改革が苦難にあふれていても、恐れるものではありません。

    組織悪は、組織が必ず持つ属性と思いますが、一方で組織がなければ広布も進展しません。有能な管理者が必要ですし、その指導者は創造力豊かな人格者でもなければなりません。世界を再構築する原理を知った者の宿命ですね。先生は多くの模範を残されてきました。そのなかでも対話者としての姿勢に学ぶことが最大のものかと思います。慈悲の心が蘇るような啓発と示唆に富む貴重な対話の財産を、心して学ばなければならないでしょう。
    先を見通す力は賢人のみに与えられた徳性。智慧の守護者でもあり、未来を予言した釈尊は、末法の人間主義者にもあわれみと称賛を惜しまないでしょう。変革は受け継がれてこそ成し遂げられるもの。困難な現代にあって、聖者の思いが叶えられますように祈りを捧げるだけです。そして尽くすだけです。

    確信が他者を動かすことは、わたしたちはよく経験しています。また信仰への確信が得られるかどうかが、信仰者の立場から言えば、きわめて重要であることも知っています。そのために日々苦労しているといってもよいかもしれません。確信への道程は個人的差異があり、それぞれ理性的、経験的、直観的なものとして得られます。しかし大小の強さの違いがあり、揺るぎない確信は簡単に得られるものではありません。
    わたしたちは成功より失敗から多くを学びます。慈悲深きご本尊さまは、試行錯誤するための失敗を必ず与えてくれます。それは試練とか困難とか受難とかを通した失意と言われるものです。立ち直れないほどに打ちのめされることです。このときの自己の弱さの自覚が、確信のつぼみとなります。確信は弱さを経た花なのです。自己存在をありのままに肯定した土壌から恵まれる花なのです。
    失敗を経験しなかった人は信用できません。また失敗を他者のせいにする人も信用できません。懸命な人ほど失敗を経験するのは、道理が道理を証明するようなものです。目的を持ち、自己解釈に楽観主義の知的な教養を身につけた信仰者は、内省的なまなざしで自己を励まし限界状態を越える。
    わたしたちの信仰への真の確信は、成功や功徳の成就からではなく、失敗や迷いを通した反省や克服のなかから得られるものです。辛い経験に負けないという精神の持続性が、確信を不動のものにする聡明なる信仰者の唯一の基礎的資質です。それが菩薩の本質へ直結している回路だと思います。

    わたしたちはいつも誰かに励まされ、また誰かを励まそうと努めています。心からの励ましの言葉が、自分と他者の境界を取り除くことを多く人は知らない。意識しない。失敗や迷いの渦中にあっても、身を投げ出すような励ましは、自らの心も励まし、他者とともに自らの運命を切り開く原動力にもなるのです。だから失敗を恐れてはならない。困難をともなった迷いを避けてはならないことを、志が高い女性の皆さまに深い情感をこめて訴えます。
    困難は、ただの困難でしかない。困難を苦しみと捉えるのは、根源的煩悩である三毒の一つ・癡(ち)に翻弄される姿です。癡は渇愛とも無知・無明とも言われ、釈尊出家の中心動機をなすものと思われます。


    #4
    不信と疑いで孤立化し分断される世界のなかで、人間関係も水のように薄められる殺伐とした時代に、テクノロジーと非人間的な功利性を信奉した管理者さえも管理される社会で、希望を失わず生きていこうとする健気さは、まるで苦行者を連想させる姿です。仏教の基本である因果応報が自己責任倫理であっても、今、人間が人間の心を信じる信頼関係ほど危うくもろいものはありません。釈尊の対機説法は方便であったかもしれませんが、適切な言葉を選び励ますことでもありました。不信の世界にこそ励ましの言葉は必要であり、またそれは人間関係を効果的に蘇生させる確信の言葉と言えるのではないでしょうか。
    か弱き自分が、自らに課した運命に決して負けないためにも、自他ともに輝く確信の励ましが、わたしには必要不可欠なのです。

    『信仰は疑うべきものでなく、いつも揺れ続ける自分自身こそ疑うべきものです。
    確信は、悲哀がつまった人生に別れを告げる魔法のような知性のことです。
    わたしは変われる、そう思うこと、それが信仰です』(アンナの日記から)


    "You Changed My Mind" by Fearless Motivation
       Title 1: Small Minds
       Title 2: You Can Change


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    Comment

    ポラリス | URL | 2020.08.24 00:34
    ハイサイ、暑い日々が続きますがお元気ですか。毎週、駅前にて社会の不条理を訴える演説を行っていますが、よく顕正会のビラ配りに遭遇しますので、一度話を聞いてみると元学会員の方が多いのにビックリします。ビラの内容は、大聖人の御遺命である国立戒壇の建立でした。御遺命に背いているのが原因で地震等の異常気象、はてはコロナも大聖人のせいにする始末です。割と10年位の方が多いかな、アンナさんはの正本堂建立の先生の挨拶を聞いたことがありますか、最近聞き直すと、先生は凄いことを言われていますので是非聞いてみてください。そのころから、無教会、無殿堂主義に言及されているのです。まるで今を予測するような危機感を持っていたのでしょう。ヨロシク!
    アンナ | URL | 2020.08.24 12:30 | Edit
    いつもコメントありがとうございます。

    公明党は大衆政党というより、結党時より現在まで宗教政党としての性格が強いことは、会員ですら認めるところです。宗教に対し独特の信仰観と拒否感を持っている国民は、熱心に活動する会員の姿にも違和感を持っています。内部でも、公明党が真の大衆政党として認知されないジレンマを選挙のたびに感じているのが、会員の姿でもあります。
    大衆は言葉を変えれば民衆ですが、正本堂建立の際のスピーチも、つまり民衆が民衆の意志で民衆のために建立した正本堂という意義づけが行われるのは当然といえば当然です。妙法は民衆仏法であり、その他大勢の大衆も、民衆救済の妙法の流布を待望していると確信しているからです。
    しかし、この願望はもろくも崩れました。しかも組織の中心から、法華経の寛容精神に背き、それぞれが自分勝手な主張を繰り広げたからです。宗門の僧に言うことはありません。偉そうに見えますが、僧ほどおろかな信仰者はおりません。僧のまえに人間であることを忘れています。人間をはじめ生き物はみな平等であるという精神こそ法華経です。人間主義と言っても人間が偉いわけではありません。多様性のなかの一つの生態、それが人間という生き物に過ぎないことを、もっと謙虚に学ぶべきです。人間という共通項を十分に共有し理解すれば、宗門と創価が争うこともなかったと考えております。それが本当の民衆仏法ですが、創価のリーダーもほとんど同じで、未来への展望を欠いていたということでしょう。
    顕正会の国立戒壇論も、なぜそのような国家の権威が必要なのか、わたしには理解できません。大聖人の遺言であるというなら、なおさらです。国家の形態と思想が変化しているのに、信仰だけなぜ鎌倉時代に合わせなければ正しくないと考えるのか、理解不能。戒壇であっても一つの建物に過ぎません。大御本尊様が雨風から護られればそれで十分なのです。信仰の目的は立派な建物を作ることではなく、立派な人間を作ることなのです。
    災害や疫病、不条理な世の中の出来事が大聖人のご遺命に背いているからだとする終末論は、人間の愚かさを象徴しております。宗教の害毒が蔓延しているからなのでしょうか。悲しいことです☆彡
    ポラリス | URL | 2020.08.28 03:25
    ハイサイ、まつたくアンナさんに同感します。特に、「信仰の目的は立派な建物を作るのではなく、立派な人間を作ることなのです」顕正会の方に訴えたいと思います。先生の命は常に民衆と共にあるのですね、ヨロシク!
    ポラリス | URL | 2020.08.30 23:34
    ハイサイ、顕正会の件で大御本尊のことを観心の本尊抄で学んだら、学会は身延と同じ邪教になりますね、大聖人の出世の本懐である大御本尊を否定してます。三大秘法がなりたちませんね、それと先生が会長が上、会員が下になったら学会も邪教だと断言されてましたので、無学会主義で行くしかないと思います。ヨロシク!
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