発迹顕本やその他関係することについて、過去の文章を頼りに考えるところを書きます。
『「発迹顕本」とは、凡夫の身に久遠の仏界を顕すことである。仏法は「人間」が主役だ。戸田先生は「久遠の凡夫」とも言われた。ありのままの人間の生命に、いかなる大難をも乗り越える無限の力が具わっている。
一日一日、題目を朗々と唱え、わが胸中に「勇気の炎」を燃やし、何ものも恐れずに進む。ここに、我らの発迹顕本の道がある』(「御書とともに」)
限られた文字数という制約がある文章ですが、肝心の凡夫に総別の違いがあることの説明はなく、言わば「凡夫」という仏法用語の一般化をはかっています。「発迹顕本」も同じで、大聖人に関わる重要語句が、我々一般凡夫の行動に置き換えられています。一般化は普遍的原理の一般化、正しく見える論理の道をたどりながら、得られる結論は間違っているという、パラドックスの一種かもしれません。しかし、宗教においては、論理の飛躍も間違った結論も、信じることによって許容される。 冷静な自己こそ、信仰には必要です。
諸法実相抄の有名な御文。
『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。其の故は如来と云ふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり』
この一節の「凡夫」はもちろん大聖人のことです。末法では凡夫と表現したがゆえに、仏がなんと身近な存在になったことでしょうか。だからと言って、我々が仏を仏たらしめていると考えるのは誤りです。「凡夫」をただの「凡夫」にしてはならないのですね。
「主師親の三徳」という重要語句も一般化の運命を免れません。大白蓮華に掲載された御書講義「開目抄」でこのように講じています。
『主の徳は、「民衆を守る」責任感です。
師の徳は、「民衆を導く」智慧です。
親の徳は、「民衆を育む」慈悲です』
目新しくはありませんが、このように規定する前に、これがリーダーシップの要件と言っていることです。そして法華経の行者は「人間主義の実践者」であるとし、さらに具体的に講じます。
『わが同志は、誰が見ていようがいまいが、自分の智慧と力を尽くして人々を励まし、社会を守り支える「柱」となるのです。
希望の道を照らし、正義の道を示す「眼目」となるのです。
人々を温かく包容し、伸び伸びと育む「大船」となるのです』
これを読むと、「わが同志」という主語は、主師親の三徳を兼ね備えた仏だと言っても無理はないでしょう。際限なく一般化される例ではないでしょうか。
池田先生は海外の識者と対談するなかで、新しい概念を導入しています。現在、一つの指標となっているトインビー対談から引用するのが適切でしょう。
72~3年にかけて、宗門との間のきな臭い関係を背負いながら、充実した対話が繰り広げられております。
世界的な歴史学者と、対等の知識と情熱を感じさせる先生の言葉には、勢いがあります。初期の論文にも同じものが感じられますが、自信に満ちた求道者の姿勢は、単なる学術的な知識探求ではなく、世界の再構築の道筋に希望を抱いているからでしょう。指導者とは、新しい価値観を持つ世界の再構築者のことです。
先生はよく若き日々を振り返りながら、「戸田大学で学んだ」と言われます。詳しくはあまり語りませんが、よほど勉強されたのだと思います。たぶん寸暇を惜しんで、睡眠を削って、努力されたのだと考えます。先生が創価大学にかける思いは、若き日の苦労があればこそですが、創造も主体性も利他も、弛まない勉強の積み重ねのなかにあるということを知らしめてくれます。
人の何倍も努力し勉強された先生に師事するのなら、弟子もまた同じように努力しなければならない。師弟を貫くには簡単な決意ではすまないのですね。
トインビー対談の「事象と本質」の章で、十界論の仏界を説明するなかで、こう述べております。
『小乗仏教は、自身の”小我”(個人的自我)を否定し、消滅することによって、”大我”(宇宙的・普遍的自我)の中に融け込むことをめざしたものです。それは、たしかに”小我”の範囲内においては、到達しうる最高のものでした。ところが、それは他を利するものではまったくなく、あらゆる人々を救おうとする仏の願望とは、本質的に反するものだったわけです。
これに対して、”小我”を否定するのではなく、利他による自己拡大と”大我”の本質である”法”を一体化することによって、欲望や怒り、自己保存の本能を超克する道を教えたのが大乗仏教です。したがって、大乗仏教においては、”小我”を肯定しつつ、それを”大我”へと拡大するわけです』
トインビー博士の仏界に対する質問に答えて、
『仏の悟り、”仏界”の境涯とは―――博士の考えておられる”宇宙の背後にある究極の精神的実在”ということとも共通しますが―――宇宙の背後に、また宇宙全体を含んで実在する”法”と一体化して”大我”を得た人格のことをいいます。
(略)
いいかえると、仏の境涯とは、その生命の覚知による内面的状態であって、おもてにあらわれてくる具象の次元では、あるいは”菩薩界”であり、”天界”であり、”人界”等々といった九界となります。小乗仏教においては”小我”の消滅のみに終わりますが、大乗仏教においては”大我”の樹立によって、ひるがえって”小我”を生かすことになるわけです』
ここに登場する「大我」「小我」について、疑問に思ったので、さっそく、めったに開かない仏教哲学大辞典を引っ張り出しましたが、二つとも項目すらありません。つまりこれは仏教の教義ではありません。
「大我」はトインビー博士が言うところの「宇宙の究極の精神的実在」、つまり南無妙法蓮華経であり、「小我」は己心の法、己心の仏、己心の南無妙法蓮華経です。「大我」は「根本的な本体をとらえた法」であり、「私達の生命の様々な動きを発現させていく」原理であると述べております。宇宙の根本である「大我」は、言い変えれば仏種であり、その根本に反応して己心の仏界・小我が開くとの解釈が先生が言われる論旨だと理解します。
新しい概念の導入について、はっきり定義を決定しなければなりませんが、少なからず時間が必要でしょう。注釈、論といった解釈の歴史が仏教史ですので、わたしはこのような概念の導入に反対しません。むしろ賛成です。わたしが受け入れられないのは、重要語句の拡大解釈。一つの違反解釈を認めると次から次と違反の拡大が進むことです。根本義の解釈は伝統的に定着しており、安易な使用方法は誤解を招くだけです。
この問題は、伝統と新興が対立する火種になると予想できただろうと思いますが、それを指摘する冷静な信仰者が一人としていなかったということでしょう。そのための努力がはたして十分だったのかどうか、今となっては虚しい思いですが、相手を理解できないというようなことは宗教に限らず社会一般、あるいは家庭のなかでさえ、頻繁にあることです。人間って無知であると同時に、感情に支配される偏狭な生き物なのですね。
池田先生が欧米の著名人と対話するようになってから特に、難解な仏法用語や経典、道徳的・倫理的規範、歴史など、西洋とは異なる考え方を理解してもらうために、大変な創意があったと思われます。仏法を西洋の哲学的言語で語る難しさに直面し、正しく伝える困難さを味わったに相違ないのです(*注記参照)
一般化とは、日常語で語る言葉の創意工夫ですが、哲学に対しては特に厳格さが必要です。宗門では、そのような努力を、まったく認めようとしませんでした。単なる語句の解釈ひとつにしても、伝統が持つ頑固さで許容範囲が限られていたということかもしれません。伝統は時として、新しい種からの新鮮な芽を摘んでしまう側面があることは仕方がないことですが、それが対立ではなく、十分な寛容心のなかで検討されなかったことが残念でなりません。御書に見られる大聖人の優しい慈悲心がなかったのですね。妙法への信仰は、寛容心を涵養し、人格を純粋に洗練することにあるのではないかとわたしは考えるのですが、悪は滅ぼすなどと口汚く罵る信仰に対しては、距離をおきたいと考えてしまいます。品のない言葉は品のない人格が使うことを、忘れてはなりません。
正確には分からないのですが、52~3年頃、「教学上の基本問題」ということで聖教に掲載されたらしいのです。ネットで検索して一読すると、言葉じりをとらえて、わざわざ問題を作っているという印象を受けたのですが、宗門の頑ななこだわりは、一般信者の考えからは並はずれて遠いようです。
一般化はやがて世俗化を免れません。そして世俗化は一歩間違うと低俗化という泥沼にはまります。妙法の品位を落とす行為は避けなければなりません。民衆仏法といっても安易に妥協してはならないと思います。低俗化は品位のない大衆化でもあります。
(御本尊の一般化と血脈の問題点)
このような語句の使用方法は牧口先生以来の創価の伝統です。ここに見られる思考法は御本尊問題でも同様で、血脈次第で大御本尊も大御本尊でなくなると同時に、大御本尊を蔑んで複製となんら変わりないという一般化を行っているわけです。大御本尊という高貴な言葉も意味を失って、正反対に反転して、ただのモノになってしまうのです。よく言いますよね。信徒には神社の神札も価値があるというのに、創価(日蓮信徒)では大御本尊に価値がないとは。今まで唯一のものと信じてきたのが、突然価値がなくなり唯一のものでなくなるとは、どのような思考回路を経ればいいのか思いもつきません。
「あれは木だ、木はいつか腐る」なんて平気な語調で言うんですよ。
人間だっていつか腐りますよ。だからと言って人間を蔑みますか? 有機物ならなんでも腐ります。無機物だって時間がたてば風化し崩壊しますが、だからと言って価値がないなどと誰も考えません。人間を蔑む者は自分を蔑む者です。御本尊を蔑む者は他者の命を蔑む者です。このような人はもう正常ではありません。正常でないことを認識できない狂人です。
絵画の真贋は厳しく問われます。贋作が本物と見分けがつかないほどそっくりでも、贋作は贋作です。つまりコピー品は価値がないのです。贋作を展示した美術館は、その審美眼を疑われ笑われることは必至です。
御本尊のコピー(複製)は絵画とは異なります。信仰特有の血脈という見えないものが付属しているからです。善人がコピーすると血脈があり、悪人がコピーすると血脈は流れないというわかりにくさです。たぶん、コピーする手には「正義」というような見えない文字が書いてあるのでしょう。
大御本尊を受持の対象にしないと言って、大御本尊に不信を投げつけた信仰者がコピーする御本尊は、はたして血脈が流れているのでしょうか。法体の血脈はもうとっくに流れていません。始めから問題にしていませんので気にしてませんが、信心の血脈も流れていないとしたら、創価とはいったい何者?
原田会長の会則変更の乱脈な説明(2014年11月8日・聖教新聞「世界広布新時代へ 更なる飛翔 日蓮仏法の本義に基づいた会則変更」)を読んで、わたしはその知性を疑いました。
電源と端子という例を引いて、御本尊はそのような関係にはないと断言いたしました。したがって一閻浮提総与の大御本尊を受持しないと否定しても、創価が授与する御本尊には、なんら影響しないと言われました。複製は元本があればこそ複製が可能なのであり、元本がなければ複製も不可能であることは、誰が考えても筋道が通った論理です。贋作もほんものがあるから贋作が可能なのです。こういうわかり切った道理が通用しないのです。
「大我」と「小我」の関係性は、まさに電源と端子です。宇宙的広がりの大我と同等の真理を、祈ることによって己心に顕現できるのですよね。祈りが、電源と端子を結ぶ電線です。仏法にはこのような例はたくさんあります。総別の二義は電源端子を象徴的に表しています。総別は比較相対論ですが、別してから見れば、総じてはすべて端子です。御本尊を電源と端子の例で説明するのは、教学的にもたいして意味がありません。意味のないことを最高責任者がおっしゃるので、会員から知性への疑いを持たれるのです。電源と端子の関係が、特殊であるかのような印象操作を、意識的行っているのです。
「仏界即九界」について。仏界が説かれたからこそ、一念三千は完成し、人間完成への道は開かれました。仏界は光源となり、他の九界を照らします。こういう関係は、電源と端子の相似形です。仏界はまさに世界平和への電源であり、幸福成就のエンジンであり、人間一人ひとりという端子に、希望という活気を与える源なのです。
会員の皆さまは、ほんとうに師弟の関係を理解していますか?
師と弟子の人間関係は、電源と端子の関係ですよ。電源がなければ端子も不要同然であるように、師の存在が会員一人ひとりにとってかけがえがないものであるのです。師は一人、弟子は多数。弟子の行動に力を与えてくれる電源は、師の言葉であり、行動なのではないでしょうか。師が投げた言葉を弟子は受け取り、師があればこそ弟子も光り輝くのです。師弟は一体であり、師を否定すれば弟子を否定することです。電源と端子は一体であり、ムリヤリ引き離すと端子は端子の役目のすべてを喪失することになる。 大御本尊から引き離された御本尊は、根本尊敬の重要な効用を失う。
電源端子の例えは、もともと戸田先生が用いたものです。そもそも八万法蔵と言われる仏教全体の構造が、南無妙法蓮華経から見れば、端子に当たりますし、文化、芸術、科学技術などの社会全体が、八万法蔵を根に例え、南無妙法蓮華経を幹とすれば、枝葉や花に当たります。樹木の幹と枝葉は、電源と端子の関係以外何ものでもありません。
『大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしやるのです。これはありがたい仰せです。
この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。
ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている』(「日女御前御返事」講義『戸田城聖全集』第6巻)
原田会長は、戸田先生の御指導とは真逆のことを、平気で言っている。
会員の御本尊には血脈は流れていません。無理やり断ち切ってしまったのですね。わたしがそう断定しても誰も反論できません。そのようにしてしまったのは先生ですが、会員にも責任があります。会員は神のように、先生の無謬性の性格を信仰しているせいで、疑いを持つこと自体を自分に禁じているからでしょう。血脈は大御本尊と教義に支えられていることを考えるべきです。
人間なら誰でも、生物学上の父母が存在します。子供の意志や感情と関係なく、親からは必ず遺伝子を継ぎます。それはまさに生命を継ぐことであり、人格形成や人生への希望、幸福創造のアイデンティティーと深い関係があることは今更言うまでもありません。
御本尊もその由来を無視できません。御本尊のアイデンティティーは、血脈と訳してもなんら誤訳にはあたりませんが、御本尊は歴史的な経過を積んだ所産でもあるのです。一人の偉人と哲学と歴史のなかから生まれたのです。そして普遍的価値が認められましたが、その由来を否定すると、根本から狂います。一度狂うと、際限なく狂います。
謗法の地にある御本尊の受持は謗法であるという断定は、おそらく仏教史に刻まれる愚論でしょう。
真理がすでに定まり、その永遠性が約束された作品が、ある日、悪漢に渡った途端、その価値がなくなる。芸術作品ですら、そのようなことはありえないのに、宗教の神秘的な世界では、不変的なものも、リーダーの見解で、一日にして谷底に投げ捨てられるという価値転換があるのですね。
テロ集団ISISが文化財の破壊を繰り返し、人類遺産を否定し尽くした行為を、我々は厳しく非難しますが、大御本尊否定行為も宗教テロのレベルにあることを認識できないのでしょうか。
大御本尊は闇の世界にあっても光源です。悪人と不正が支配する世界を正常な世界に戻し、正常な戒壇に奉る。それは正常な信仰者にのみ可能な、正しく正常な行為です。健康的な精神は正しいものをそのまま正しく見る。ぜひ「観心本尊抄」を精読し熟考していただきたいと考えます。
何事も気づくのが遅いわたしは、遅ればせながら不審を感じましたが、勤行の御祈念文で初代と二代会長への報恩感謝は当然としても、まだ存命中の三代会長が自らを拝ませるというのは、増上慢も甚しいのではないでしょうか。これも自賛の一つですが、いつの間にか、創価の既定事実になり定着するという悪どいやり方。自賛の欲望は果てしがないようです。「リーダーは謙虚でなければならない」とは、先生の口癖のような言葉ですが、自分は例外なのでしょうか。
創価のサンクチュアリは師弟。池田先生が作った神聖な庭で子どものように遊んでいる会員は、創価というだけで疑問を感じないのかもしれない。無謬性師弟観が純粋培養されて、深く浸透しているようです。盲信とはこのような姿勢をいうのでしょう。
無謬性は神の領域であることを、自分自身に鋭く問いかけてみなければならないのですが、このような哲学的には明らかに不純な命題も、信じることによって解決してしまいます。会員のなかには、先生は日蓮大聖人の生まれ変わりだなどと言い出す人も現われる。新興宗教というジャンルの、教祖と言われる人のなかには、自らの過去世の姿を申告公表する人もいますが、どのような方法で確定するのでしょうか。冷静な批判は他人に向けられるだけでなく、自分自身にこそ向けられるべきですが、理性的成熟度の未熟な人は、その批判方法やルールすらわかりません。
<世界はすべて自分の行為のパノラマ>と叫ぶわたしは、自分でもよくわからないけれど、孤独な異端者のようなイメージでいつも満たされています。真性の正義を口走るならば、孤独を覚悟しなければならない。わたしは徒党を組む気は毛頭ありません。傷ついても信念を堅持すること。社会に対し、批判的挑戦者であること。徒党という言葉が気にいらなければ、創価にはせめて「大聖人への不正不忠の」徒党という形容詞を付けて差し上げましょう。
人生って逆説的で、アイロニーに満ちています。
正しいことを言えば非難され、幸福を求めれば苦難が待っている。
孤独であっても嘆くまい。
異端であることを祝福しよう。
悲しみが込み上げてきても、前を真直ぐ向いて、微笑を忘れない。
喜びが零れるように溢れても、悲しみに泣いた日のことを決して忘れない。
屈辱的な朝のことも、
そのような非難を浴びせてくれた不解・軽善の信仰者のことも、
わたしはしっかり覚えている☆彡

〚注記〛
「社会と宗教」(聖教文庫)
連名[ブライアン・ウィルソン /池田大作]の序文(P8)。
『私たちは、ときとして、相手が理解できないような話し方をしたかもしれない。しかし、これは決して、私たちの翻訳者の力が不十分だったからではない。そうした事態が生じるのは、通常は、どんな個人間の談話でも、(厳密に数理的な事柄を除くすべてについて)たがいの文化上の前提の広がりや深さが吟味されないままに進められ、異文化圏の人々に伝達する必要が生じたときに初めてそれらが顕になる、といった理由によるのである。最初は、翻訳作業そのものが障害になるかとも思われたが、実際には、それは私たちにとってより深い自己認識への踏み石となり、これによって、両者はともに、自らの叙述事項の再検討と思考の明確化を迫られたのである。いずれの言語でも、それを母国語とする人は、定義が不明確で、曖昧で、系統立っていない仮定や論点を、厳密に調べずにすますことができ、また、そのままにしておくほうが手っ取り早いものである。誰しもときに "当たり前のこととされている" 命題を用いることがあるが、一つの文化圏の中ではその共通の基盤がしっかりしているため、同国人同士であるならば、いかに曖昧で直観に頼った話し方であっても、言外のほのめかしや言及を相手が理解してくれることを、たがいに当てにすることができるのである』
とても誠実な内容の序文です。
豊富な知識と見解を駆使しながら、専門分野外のテーマまで論及していることに、確かで聡明な決意が感じられます。またできうるかぎりの客観性に留意したことが、この対談を素晴らしいものにしています。
序文の最後にこのように記載されています。
『当初、私たちの意見交換を記録に残すことを初めて決めたとき、両者の見解がどの程度まで分かれるのか、ともに疑問に思わざるをえなかった。しかし、そうした可能性に対して、私たちは何らの抑制も修正も加えなかったし、興味深そうな話題を差し止めたり避けたりすることも、一切しなかった。実際、こうした精神に立ってのやりとりのお陰で、私たちはたがいに、いくつかの論点を切り開くことができたのである。それらを巡っての私たちの異なる観点が、真実の意見交換に見られるあの知的興奮を生み出しうることを、私たちは願っている』
たがいの対談者に対する尊敬が感じられます。
このような対談集を残してくれたこと、深く感謝したい。
「社会と宗教」(聖教文庫)
連名[ブライアン・ウィルソン /池田大作]の序文(P8)。
『私たちは、ときとして、相手が理解できないような話し方をしたかもしれない。しかし、これは決して、私たちの翻訳者の力が不十分だったからではない。そうした事態が生じるのは、通常は、どんな個人間の談話でも、(厳密に数理的な事柄を除くすべてについて)たがいの文化上の前提の広がりや深さが吟味されないままに進められ、異文化圏の人々に伝達する必要が生じたときに初めてそれらが顕になる、といった理由によるのである。最初は、翻訳作業そのものが障害になるかとも思われたが、実際には、それは私たちにとってより深い自己認識への踏み石となり、これによって、両者はともに、自らの叙述事項の再検討と思考の明確化を迫られたのである。いずれの言語でも、それを母国語とする人は、定義が不明確で、曖昧で、系統立っていない仮定や論点を、厳密に調べずにすますことができ、また、そのままにしておくほうが手っ取り早いものである。誰しもときに "当たり前のこととされている" 命題を用いることがあるが、一つの文化圏の中ではその共通の基盤がしっかりしているため、同国人同士であるならば、いかに曖昧で直観に頼った話し方であっても、言外のほのめかしや言及を相手が理解してくれることを、たがいに当てにすることができるのである』
とても誠実な内容の序文です。
豊富な知識と見解を駆使しながら、専門分野外のテーマまで論及していることに、確かで聡明な決意が感じられます。またできうるかぎりの客観性に留意したことが、この対談を素晴らしいものにしています。
序文の最後にこのように記載されています。
『当初、私たちの意見交換を記録に残すことを初めて決めたとき、両者の見解がどの程度まで分かれるのか、ともに疑問に思わざるをえなかった。しかし、そうした可能性に対して、私たちは何らの抑制も修正も加えなかったし、興味深そうな話題を差し止めたり避けたりすることも、一切しなかった。実際、こうした精神に立ってのやりとりのお陰で、私たちはたがいに、いくつかの論点を切り開くことができたのである。それらを巡っての私たちの異なる観点が、真実の意見交換に見られるあの知的興奮を生み出しうることを、私たちは願っている』
たがいの対談者に対する尊敬が感じられます。
このような対談集を残してくれたこと、深く感謝したい。
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