創価に未来がないことは、女子部の姿が証明しています。わたしもかつて、その一員でしたが、冷静に考えて見れば、空恐ろしいことです。有能な人材は躊躇なく離れていき、人材欠乏が顕著です。
自分の信念を持った信仰者に出会いたい。他者に依存しない強固な意志で人生を切り開く女性に出会いたいと考えても、尊敬に値するそんな方はどこにいるのだろう。人間主義といっても、人間を作り、人間を見い出すことから始まるのではないですか?
組織に不幸を感じてしまうのは、なんと不運なことだろうか。
仏教の教義の根底を貫くものは、因果の理法。その妥当性について確信を持つことは、とても難しいことですが、わたしはあるとき、カントが導入した「理性信仰」に触れたとき、深く魂が揺さぶられる思いがした経験があります。わたしたちがまるで日常語のように、因果や業について、また生命の永遠性について、疑問を挟む余地もなく当然のごとく語っていることに、ふと疑念が湧きました。因果の理法と言っても証明できず、ただ信仰実験を繰り返すしかありません。
こういうとき模範会員は三証があるではないかと必ず諭すように言うのですが、わたしが言いたいのは自己吟味の必要性ということであり、反省なき人生には価値がないということです。冷静な自己観察と自戒です。つまり理性信仰ということです。会員が邪宗と蔑んでいる他宗でも、功徳と自己完成への道程に喜びがあるのですから、他宗の信者にも立派な三証があり、因果の妥当性が証明されているのです。これは客観的事実であり、『社会と宗教』でもディスカッションされた話題です。
仏法ヒューマニズムと誇らしく言っても、その特性から独善的で暴力的に成りうることを、自己反省の要点として押さえておかなければなりません。第二次世界大戦の経過をみればよくわかります。仏教の基本である尊厳を、誰が強く訴え、命を賭して実践したでしょうか?
尊厳は他者に対して用いる言葉であって、自己の尊厳のみに適用するだけであったら、それは平和と救済、人間性完成という智慧を奴隷にした奇怪なる非仏教の仏教もどきです。釈尊を汚す似非信仰者です。
大聖人は自己完成への道を歩まれました。豊かな可能性をその内面に、その心に、その命に見い出しました。それは最高の倫理であり、善悪を超えた普遍性を保証する菩薩の道でもあります。独善性を排した他者尊敬の共存の道なのです。
困難や苦難と呼ばれるものがもしも与えられるなら、菩薩でありたいと願うのは信仰者の当然の願いですが、その模範とする大聖人の命・・・大御本尊(最高善)をいつかは腐るであろう板であると言ったのは誰なのでしょうか。恥知らずな言葉は、信仰者の口から出たものとはとても思えません。
御本尊は行為を映す鏡であり、また運命の扉を開く女神の役目も兼ねており、鏡の奥から翻って見つめているのは、腐るのは創価自身という運命なのです。人間はどこまで行っても不完全であり、その偏狭さから、独善性の罠に、必ずはまると言っても過言ではありません。
その罠をわたしは、運命の罠と呼んでおりますのよ☆彡
人は、運命を避けようとしてとった道で、
しばしば運命にであう<フォンテーヌ>
運命は我々を導き、
かつまた我々を翻弄する<ヴォルテール>
運命を大御本尊に入れ替えると、
創価の運命を暗示していておもしろい<アンナ>
しばしば運命にであう<フォンテーヌ>
運命は我々を導き、
かつまた我々を翻弄する<ヴォルテール>
運命を大御本尊に入れ替えると、
創価の運命を暗示していておもしろい<アンナ>
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『仍て法界が法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり』
(不軽菩薩が皆を拝むのは、不軽のなかの真理が皆のなかの真理を拝むということです。これを自他不二の礼拝という。なぜなら、不軽菩薩が皆を拝めば、たとえ思い上がった人たちでも、彼らの仏性が不軽菩薩を拝み返すからです。鏡に向かって礼拝するとき、そこに映った自分の影もまた自分を礼拝するのと同じ原理です)「御義口伝」
鏡に向かって口汚く罵れば、あなたの影はあなたを同じように罵る。鏡に向かい、わたしは大御本尊を信受しないと言えば(心からそう願うならば)大聖人は、あなたを信じて自らの命を与えることはしない。仏性ある者として受け入れることは決してない。「事の一念三千」とはそういうことです。腐るだろうと鏡に向かって言えば、腐るのはあなたの命です。
民衆仏法から離反した民衆(僧と在家・宗門と創価)ほど不幸なものはない。創価は今まで以上に、綻びが明らかにならないように、仮面が剥がれないように、本当の歴史が露わにならないように、ミスがないように自らの姿をチェックするのに忙しいだろう。だから今まで以上に、自らの姿を鏡に映し出し、確認するように大きな声で叫ぶだろう。不安で確認せずにはいられないのです。
「わたしが正義だ」、「わたしが正しい」、「わたしが民衆を救ったのだ」、「世界が認めている」、「名誉称号は世界一だ」、「創価は世界宗教だ」、「平和を作ったのは創価だ」、「永遠の指導者は絶対だ」、「未来は創価のためにある」と、毎日の聖教で、不安を打ち消すように叫び続けられています。
そして、無辜の善意の人々の善良さに迫り、慰撫し、欺き、脅迫し、お金をむしり取っていくだろう。
正義の実行には多額のお金が必要なのよ。そういえば、金庫を藪に投げ捨てたこともありましたね。あきらかに嘘とわかる言い訳をして、見苦しいことこの上ない。ちょっとしたコヅカイなんだから、大騒ぎするほどのこともないんですよ。1億や2億は、ゴミ同然!

最高の教団は最高の集金団体でなければならない。そんな脅迫めいた偽善に誑かされたのは、いつ頃からのことなのだろうか。供養と献身とは、つまりはお金への執着のこと。成仏へのプロセスをお金で買おうとするあさましい精神。仏さまを買収しようとしている。正義も広布も金次第?
強欲の皮がつっぱり、なんでも数量的多数に執着して、顔の筋肉を歪めて笑っている自称・菩薩、菩薩っぽい非菩薩。
潔癖、清純でなければ、人間も教義も倫理も、なにからなにまで朽ちてゴミになるのは永遠に変わらない宗教の黄金律。小さな嘘、何気ない虚栄と誤魔化しから崩壊は始まります。会員に対し、厳格過ぎるほどの誠実さが求められているのです。厳格な厳格さという二重の誠実さが、宗教団体には必要なのです。金満宗教には必ず問題が起きます。断言しておきます


*『社会と宗教』でもディスカッションされた話題
聖教文庫「社会と宗教」(上) 信仰と功徳(P138)参照