万人にすべてを説く

    日常のなかで、喜びを見出すことは簡単なようで難しいものです。わたしの場合、後悔にさいなまれる日が圧倒的に多いし(over?)、情けないと泣きたくなる日も多いから、自分にカツを入れて毎日決意の連続です。今まで安定と保守こそ敵だ、と勇ましい言葉を吐いてきた手前、簡単にあきらめるわけにはいかないのですね。そうそう敵がまた増えました。変身した創価も宗門も敵だ! わたしに何枚もアンチのレッテルを貼りつけて、憎々しげな眼差しでにらみつけてくるからです。不軽の悲しみも少しは理解できるというものですね。逆に、ありがとうと言わなければならないでしょうか。

    創価は大御本尊を受持の対象にしないと宣言しました。教義上の厳格さにこだわるのなら、決して起きない問題だったように思うのですが、教義なんて時代とともに変化すると、まるで賢者のような顔で息巻くものだから、なにも考えない無知な会員、活動はするけれど学ばない会員は、そんなものかと思ってしまうのですね。
    宗門も宗門で、時代錯誤も甚だしく、在家蔑視の伝統的気性に囚われ、自らの可能性を束縛しているようです。出家の原点に立ち返らなければ、日蓮の真の志を、いつまでも理解できないでしょう。
    大御本尊不受持に関して、創価でも先生のご指導は一言も紹介されていませんが、わたしのような平会員では、先生がなにを考えていらっしゃるのか、皆目見当がつきません。このような重要事項に、はっきりしない指導者も珍しいことです。
    御本尊は人法一箇、日蓮大聖人の御命が妙法そのものです。信仰者は法を擬人化しやすいものですが、日蓮は信仰主体者である人間を代表しています。上行菩薩は地湧の菩薩の上首ですが、単にリーダーというだけでなく、妙法のシンボルであり、全菩薩の人格も代表しているのです。その一体の姿を大御本尊として表現されています。つまり、大御本尊は日蓮大聖人そのままの御姿なのです。信仰者全員が仏性を覚知できるのも、大御本尊の慈悲の反映です。御本仏自体であるという大御本尊は、たとえどの地にあろうと大聖人そのものです。わたしやあなたが、どの地にあろうと、わたしやあなた自身であるという事実となんら変わりありません。仏性は特別であるけれど特別ではないのです。同じように御本尊も特別であるけれど特別ではありません。主体的信仰者であれば、わたしやあなたと同じアイデンティティーを持つことを確信してください。どの地にあるかというようなことには、まったく関係がなく、だからこそ、普遍的真理と断言できるのです。
    5月19日の聖教に、「創価学会常住御本尊記念日」という記事がありました。5月12日に請願し、19日に書写されたと記事にはありますが、戸田先生が誰に請願し、誰が書写されたのか、主語が抜け落ちています。また護法の功徳力によって75万世帯の弘教を成就されたのではないですか。日蓮が「報恩抄」まで著されて強調した御本尊への恩の大切さをすっかり忘れている。根本尊敬の御本尊を物扱いする、あってはならない過失が創価にはあります。尊敬心は絶対的尊敬心であって、自分の都合により、また置かれた状況等によって変化するものではないのです。普遍的ということを、戸田先生をはじめ池田先生も繰り返しご指導されてきたのではありませんか。なぜ、根本的信仰対象を卑しめるのですか。御本尊はファッションではないのですよ。

    ウィルソン教授との対談「社会と宗教」を残してくれたことを、とても感謝ですが、創価内ではあまり重要視されていないようです。
    池田先生は次のような質問をします。
    『宗教の教義は、厳格であるとともに、普遍性をもっているということが必要であり、これは、世界宗教であるための、また時代の変遷を超えて長命であるための、必要な条件ともいえます。厳格なものでなければならないということは、時代によって、また社会によって容易に変えられるようでは、宗教の持つ尊厳性が失われてしまうからです。
    しかし、この厳しさが、ときには衝突を引き起こしたり、柔軟さを欠く結果となって、人々に受け入れられなくなってくることも事実です。教授は、宗教の教義は厳格かつ不変であるべきであって、時代とともに様相を変えていくなどということは、宗教の堕落だとお考えになりますか』

    (第一部 人間と宗教「普遍性と特殊性」)

    人格神と法の関係を論じたあと、宗教の中心をなす普遍性に話題を移しています。ウィルソン教授の答えは大変有益かつ必然的なものですが、法華経がなぜ万人向けかということのヒントもまた、答えのなかに含まれています。教授の知識はとても広く深い。御本尊に迷っている今こそ、じっくり読むべきですが、わたしは、婦人部のあいだで面倒な哲学の軽視傾向があることを悲しむものです。妙法から哲学をとったら何が残るというのでしょう。人間主義から不要なものとして思想を削除したら、何が残るというのでしょうか。宗教は祈りをともなう哲学であり、実践のための思想です。

    ウィルソン教授の対話は常に明快でくもりがありません。学究者でありながら信仰者の気持ちもよく理解しているようです。
    『純粋な形の仏教の教義は、その発生の当初から、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の教義よりも、普遍性がありました。それは、ユダヤ教などの三宗教の場合は、仏教よりもはるかに文化的・歴史的に特殊な状況の中に、その起源をもっているからです。仏陀の思想が抽象的・形而上的な性格のものだったこと、神についての神人同形的な概念がそこになかったことは、仏教の教義が普遍的な性格をもつのに寄与しました』

    すでに多くが論じられていることですが、こういう基本的事項はよく承知しておかなければならないでしょう。しかし、キリスト教・イスラム教はすでに世界宗教ですが、流布過程において多くの困難があったことに思いを寄せなければなりません。
    以前ビデオで、ブルース・ウィルス主演のアメリカ海軍特殊部隊(シールズ)の戦闘を描いた「ティアーズ・オブ・ザ・サン(Tears of the Sun)」を見ました。絶望的な戦地で、献身的に難民に尽くすキリスト教宣教師の姿がありましたが、このような命がけの布教で、世界宗教に発展したものと思います。映画では戦闘に巻き込まれ冷酷に虐殺されますが、キリスト教のその純粋な自己犠牲は、特に聖職者に求められました。どちらかというと、内面に閉じこもりがちになり、功利的判断を優先する仏教徒には考えられない崇高な姿です。暴力の前で無力でありながら、無抵抗の命をかけた使命ほど尊いものはありません。絶対的平和主義とは、命を害する力の脅威である攻撃性の全否定なのです。世界を威圧的に動かそうとする力への信仰が、どれほどの不幸を作り続けてきたのでしょうか。十分過ぎるほどに経験してきたのではありませんか。

    『もし仏教の教義が十分柔軟性に富んでいて、対象となる心的態度が黙想的・神秘的なものであれ、合理主義的なものであれ、また、現実主義的であれ、それらをすべて受容できるというのであれば、この三つの異なる態度のいずれに対しても、仏教自体は、常に不変であるということなのでしょうか。
    それとも、仏教も、種々に異なった文化や気質に合わせるために、教義を変えないまでも、強調点を変えるといった内的な変化を、ある程度経ているのでしょうか。
    仏教も、その歴史と布教の長い過程において、かなりの内的な多様化を経てきたことは明白です。
    そうした順応は、仏教がすべてを受けいれる受容力を示すものと受け取ることもできましょう。しかし、反面、普遍的に有効な倫理という概念を脅かす状況への妥協であったと見ることも、同じくらい可能なことでしょう。普遍的な効力をもつ思想や教えを有効に説くためには、宗教は、内的な統一性・一貫性を示さなければならないのでしょうか。(中略)
    (仏教は)土着の宗教的伝統と寛大に妥協を行う中で、その中心的な関心事をさまざまな形で放棄し、その結果"万人にすべてを説く"ようになったといえるでしょう』


    日蓮があらわした曼荼羅には、仏教の歴史が凝縮していると考えてもよいでしょう。いわば、万人性の象徴ですが、問題がないわけではありません。流布してきた国々や地域の、土着の宗教や民間信仰と融合を繰り返してきたのが仏教史ですが、大乗仏教が日本に伝わったとき、天照大神や八幡神も仏教の守護神として取り入れられました。神仏習合、本地垂迹など仏教と神道の習合は、万人性を獲得するための折衷案でもありましたが、これには仏教の中道思想がうってつけだったのかもしれません。天照大神や八幡神は皇祖神でもありますので、創価の初代会長が獄中死したことも考え合わせると、天皇制への複雑な思いもあります。
    万人性をあらわすもう一つの事例は、あらゆる国々や地域の神々や習俗だけでなく、多くの経典とともに、三世十方の諸仏と言われる数えられないほどの仏や菩薩を創作してきたことです。原点である人間的な釈尊は、その過程において神格化をまぬがれませんでした。見方を変えれば、もともと普遍的性格を内蔵していた倫理的教理が、時代や地域の特殊性に左右されない普遍的宗教という世界性のクォリティーを獲得したということもできます。
    もしも、インドから中東地域に拡大していれば、キリスト教も現在と違った形の宗教である可能性も否定できませんが、仏教においても多くの聖人や伝道者が過酷な迫害を受けたことを考えると、流布過程はどういうわけか類似する性質があるようです。穏やかな対話も暴力によって強引に否定される傾向性は、流布する宗教の真理形態やスタイルには関係がないのかもしれません。

    カトリックと創価で、以前、有意義な対話が行われ、その成果が出版されています(「カトリックと創価学会」:信仰・制度・社会的実践/南山宗教文化研究所編・第三文明社)。日本有数の南山宗教文化研究所と東洋哲学研究所の間で、努めて冷静なシンポジュームが開かれ、自由なデスカッションがありました。問題は多岐にわたりますので一口に総括できませんが、宗門問題も大きく取り上げられております。95年のことであり、創価はすでに宗門から破門を言いわたされ、晴れて自由の身になった喜びがあります。冒頭のオリエンテーションでも認めておりますが、宗門という鎖から開放されたことが、対話の一つのきっかけになりました。自分の意見に執着する宗門の閉鎖性は、純粋培養された聖職主義によるものですが、古色蒼然の暗然たる陰鬱さは、これが日蓮の系統の宗教とは思えない凋落ぶりです。信者拒否は人間性拒否につながり、倫理的にもその報いを当然受けます。因果の理法は厳しいですね。
    記念すべき討論のなかで、世界宗教の条件と課題として、「寛容と宗教的真理」のバランスについて考えさせられる個所がありました。これは創価だけでなく、その先駆者として、キリスト教が絶えず直面してきた問題です。言い換えるならば、世界宗教として必要な万人性とは仏の寛容性の問題でもあるのです。キリスト教の仏教的解釈、仏教のキリスト教的解釈という、今まであるようでなかった諸宗教間の親和的友好と対話を、わたしは強く望むものです。
    この論考を提出しているのは、J・ヴァン・ブラスト博士(南山大学名誉教授・カトリック司祭)。創価や宗門問題について知識も豊富であり、議論の焦点にズレが生じることはありません。
    『創価学会とSGIは比較的新しい運動でありながら、古い伝統をもつ日蓮宗、そして仏教全般の中で発展してきた運動である。(中略)
    今まで日蓮宗は世界宗教に発展してこなかったかもしれないが、仏教そのものは昔から世界宗教として認められてきた。SGI―日蓮宗―仏教という三角形のさまざまな側面の間の関係は、どのように考えられるだろうか。あるいは、もっと直接的に問うとすれば、皆さまはSGIの世界宗教への発展を日蓮宗や仏教の枠内で考えるか、それともそれから独立して考えるかということである。後者の場合は、キリスト教が「母胎」であったユダヤ教から分離して世界宗教になったことと類似したパターンになるのである。
    仏教内部での発展をめざす場合には、次のようなことが考えられるだろう。仏教が世界宗教であることは間違いないが、長い間世界宗教としてあまり機能してこなかったことも事実である。なぜかというと、必要とされる教義と組織の統一を失ってきたからである。その代わり、いろいろな国別の仏教、宗派別の仏教になった。それは、ある部分は、さまざまな民族にかなり徹底的に土着化したということによるのである。そうした点から見ると、SGIの革命は仏教の再統一を主要な目的の一つとすべきように思われる。すべての仏教者を法華経のもとに集わせることが、日蓮聖人の夢ではなかっただろうか。オリジナルな普遍的な理念へ回帰することによって、仏教を縛っているさまざまな民族宗教から、仏教を解き放つことができるのではないだろうか。
    他方、もしSGIが現在の仏教の状況はあまりにも複雑で改革し難いものと考えて、始めから再出発した方が簡単であると判断したら、よく理解できることだろう。しかし、この場合には次の二点が重要になってくると思う。一つは、これは多くの既成の世界宗教の他にもう一つの宗教が発展することを意味する。もちろんそれでよいだろうが、それは、すでに存在する宗教間の緊張を悪化させない限りにおいてである。世界平和が達成されるために、このグローバルな地球の村では、宗教間のある統一と相互協力が最大の重要性をもつことはたしかだろう』


    未来の世界宗教のあるべき姿を検討しています。とても重要なので詳述すると、
    『あるいは、この問題を異なった形で表現するならば、未来の世界宗教は今日の既成宗教とどのように相違すべきかということである。もちろん、これは非常に大きな問題だけれども、いくらか希望的に考えて、次の諸点を指摘することが出来ると思う。
    第一に、私は、今日の創価学会でよく強調されるところの、「未来の宗教は在家の宗教であるべきだ」という点を否定するものではない。(中略)
    第二に、宗教は従来、もっぱらといってもいいぐらい個人の救済(ほとんどは死後の)を目指すものと考えられてきた。未来においては、宗教の社会的責任がさらに中心的なものにならなければならないと思われる。キリスト教の中には、初めから「神の国」という形で社会的な側面が入っていたといえる。(中略)
    同じく仏教にも、少し似た考え方として「仏国土」の思想があったが、私が知る限りでは、それは来世のものとして考えられてきたのではないかと思う。仏教においては、宗教の社会的責任がもっとも強調されたのは、日蓮聖人の「立正安国論」の中であったかもしれない。
    未来の世界宗教が示すべき第三の特徴は、他の宗教を宗教的に認めることができることだと思う。「宗教的に」という言葉が意味するのは、本質的に市民的寛容といったもの以上のものである。すなわち、自らの宗教性から出る、自らの宗教教義に基づく他の宗教の評価ということである。これは難しい要求であり、私たちにある種の「改心」を要求し、私たちの個々の伝統の徹底的な再検討を要求するものである。キリスト教においては、こうした作業のうちの知的な部分は、現在「諸宗教の神学」として知られる学問において行われつつある。おそらくこうした作業は、日蓮仏教にとって、したがって創価学会にとって、キリスト教に比べてよりたやすいというわけではないだろう』


    その他の問題点を三つあげている。
    第一に、従来の世界宗教は非常に家父長的なもので、「男性ショービニスト(排外主義)」だったこと。将来の宗教においてはいっそうの男女平等の原理が求められること。
    第二に、科学技術の進歩はめざましいことから、科学に適応するための妥当性が必要であること。
    第三に、未来の宗教は人間主義的であること。しかし他方、人間中心的になってはいけない。
    さらに、寛容の問題について
    『現在、非常に異なるそれぞれの真理を代表する多くの宗教が、「宇宙船地球号」に同乗しているのである。こうした共存の性質によって、諸宗教が世界平和を脅かすか、あるいはそれに貢献するかということは決定されるであろう。したがって、次のような実存的な問いが中心的なものになると思う。自分自身の宗教を広布したいという熱望は、自らの「真理」のために他の諸宗教の「真理」を打ち負かしたいという願望を含むのかどうかと』
    『キリスト教の伝統的な考え方はむしろ日蓮仏教のそれに似ているのではないかと、わたしには見えるのである。間違っていたら教えいただきたいと思うが、それは大まかに次のようなものである。つまり、「私たちのもっている真理は絶対的である。他のどの真理も、人々を救ったり真の幸福に導いたりすることはできない。我々の真理に反する者をすべて廃するということが、人類の真の善に導くものとして必要である」というような考え方である。一見したところでは、これはまったく動かし難い立場に見えるので、それをどの方向で「再検討」できるのだろうか』


    キリスト教も最近まで、異教の他者を廃し、布教の対象にしてきましたが、対話の重要性を強調するように変化しました。宗教戦争や文化の破壊に見られる排他的態度は、イエスの愛に背くものとして反省され、他者をありのままに認める愛の再認識に至ったのです。そして、この鋭敏なキリスト教徒は、「日蓮聖人のメッセージを正しく理解してきたのだろうか」と、SGIと創価に迫っているのです。一神教と一仏教は東西のような開きがありますが、どちらもともに、人間を超えた普遍的実在への過程を説いたものです。その過程に至るために愛があり慈悲があるのではないでしょうか。わたしたち人間は、この崇高な行為の一部分でも実現できているのでしょうか。釈尊生誕から2500年。その仏教の歴史は、内も外も争いの歴史でした。釈尊が第一に説いた共存共栄を可能にする菩薩の心は、歴史の狭間にまだ埋もれたままなのではないでしょうか。
    宗教的真理と寛容の境目で、賢明な検討と実践を行わなければならないだろう。寛容とはつまり慈悲ということでしょう。今までいつも宗教的真理を優先し、他者の信仰を排除してきたこと、そのために常に争いが絶えなかったことを、寛容という徳目の真の力用とともに学ぶべきです。さまざまな宗教観と価値観を持つ人々が共生する社会に、自由な精神を実現すること、それが宗教の最終的使命と思います。絶対的仏が、なぜ正義の名のもとに排他的なのか、よく考えてみなければなりません。
    このような未来の宗教世界について、問題提起もなく、議論への持続的バイタリティーもなく、危機感もない現在の宗門が対応できないのは当然と言えば当然です。生命尊重の思想を体現した日蓮の、本当の心を理解できないほど硬直化し、醜悪なまでに俗世に浸り、信者の苦しみに同苦できないほど悲しいまでに形骸化している。俗に解脱とは、いくら凡僧でも取るべき道ではありません。


    Decimator (Extended)
    Two Steps From Hell





    宗門問題(小説・人間革命の結末)について
    宗門問題をあらためて考えると、日本仏教界全般に認められる歴史的な背景があるように考えます。江戸時代の寺請制度から始まった檀家制度は、信者の自律的、積極的な信仰心からの檀家ではなく、代々の世襲として受け継がれてきた家の宗教という伝統です。明治になり、廃仏毀釈により教団存続の危機を迎えましたが、宗教本来の独立と刷新のチャンスを逃し、保身と教団経営に腐心する体質を一層強化するだけでした。日蓮正宗にも改革者は現れず、世俗化し、妻帯し、布教への情熱を失い続けました。表面的には厳格な宗旨の護持を強調しますが、檀家の信仰心はまったく謗法にまみれていたのです。僧には信徒を教育する力も意識もありませんでした。法主を頂点とするヒエラルキーは、権威と権力の象徴となり、在家信徒はただ従属するという上下関係が頑なに維持されたのです。
    この保身と保守の俗化した宗門組織は、創価学会という改革意識が旺盛な在家組織が現れると、その宗教本来の布教精神に圧倒されます。保身と改革、保守と革新が対立するのは当然のこと。ゾンビのように死んでいる組織が、生き生きと活動し僧にプレッシャーをかける在家に、敵意と悪意に満ちた確執が生まれるのも自然の流れ。冷静さを欠いた聖職者ほど始末の悪い品性はありません。宗門問題は起こるべくして起きた歴史的問題でもあるのです。
    「新・人間革命」(「誓願」五十七・6月1日聖教)では、1991(平成3年)年の宗門の「お尋ね」文書に関連して、宗門の僧俗観の一端が紹介されています。
    『本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するもの』
    それまでの形骸化した既存仏教に対し、日蓮がどのような革新的教義と行動で臨んだか、750年前の清新の息吹は影も形も失われている。僧俗和合の破壊の原因は、行動をともなわず知識とプライドばかり高い、宗門のその古びた感覚にあるのです。究極的な平等論を展開する法華経の精神は、日蓮時代から著しく退化し劣化している。
    末法は、在家中心に布教運動を前進させ、それぞれの信仰者の人生の節目において必要不可欠な葬儀法要といったセレモニーを、僧は補佐する役目があるのです。また信仰者の模範として人格的にも少欲知足でなければならず、強い護法への決意も必要です。僧が偉いわけでなく、また在家が偉いわけでもない。単なる役割分担に過ぎないのです。十界論も僧俗に区別があるわけではない。御本尊の前では、僧であれ在家であれ、成仏を願う一人の信仰者なのです。
    創価内でも同じです。会長もブロック長も白ゆり長も一つの役割として機能し、一人に焦点を当てるために、一人の成仏と人生改革が最も大切であり、基本であることを認識しなければならないでしょう。万人のための成仏の法は、一人のための成仏法に収斂します。会長の貢献度もB長の貢献度も、基本的に個別の一人に対する関係であり、その働きかけの平等と公平さのなかに妙法の正しさがあるのです。地位や身分、職業、経済的富や資産に左右されないのです。妙法に対する心の財は、信仰者の当然の心構えとして、今更強調する必要もないですね。
    妙法流布は在家が主体です。創価は拡大と献身に自信があるのでしょうか。宗教の根本を変更することに躊躇がありません。創価は信仰心が篤いと自己評価に等しいのですが、こういう信仰者を教育してきたのは宗門ではないのでしょうか。僧俗平等思想を実現してきた創価に、僧俗不平等を伝統にしてきた宗門が、我慢ならずに首を切ったということです。
    誤解を承知で極言すれば、僧のために在家があるのではなく、在家のために僧があるのです。仏教は一切衆生のために説かれたものであり、その流布の系譜に立って日蓮も三大秘法をあらわしました。一部の特権僧に血脈が付属し、同時に帰依の対象になるなど言語道断。神秘的血脈が受容されている法主絶対論(法主本仏論)は日蓮仏法ではありません。法主は正統の後継者であり、日蓮と本質的に同じであるとする僧宝論は、現在では賢くなった在家に対し通用しない。
    僧の位置づけは、布教の可能性を考えるうえでも、とても重要課題です。創価内ではほとんど、僧の必要性が感じられないからです。宗教に付随する儀式的なことは、在家にとって重要な事柄ではありません。儀式はあくまでも儀式であり、形式であり、宗教を荘厳するために必要悪のようなものです。プラグマティックな進化を遂げている世界にあって、実質の宗教本体に帰依する価値があるかどうかという根本的な問題こそ重要です。中身が明瞭でない聖職者という役割の、時代に相応した再解釈が必要と思う。聖職者や僧といわれる特別な権威を持った人たちは、絶対的真理への媒介者ではないのです。
    仏教の伝統的な三宝論は、どのようにして確立されたのでしょうか。その歴史的経過を十分に検証しなければなりませんが、わたしはこのようなことを僧自身によって研究チェックしていただきたいということ。日蓮は三宝論の弊害を克服するために、三大秘法をあらわし、御本尊を書き認められたのではないでしょうか。三宝は御本尊という曼荼羅に包括的に内包されていること、三宝という伝統を打ち破る革新性を妙法に求めたのではないでしょうか。三宝論の伝統を克服すること、それが妙法の革新性を際立たせることになると考えます。
    信徒の実践の基本は唱題です。他者教化という行としての折伏です。また、無知の国では摂受です。そのような個人の修行のなかに僧が立ち入る余地はありません。つまり御本尊と信仰者という、その間より仏法はないのです。御本尊は権威や権力で拝むものではありません。血脈などという厄介なものは、わたしに言わせれば、正統の権威づけの一部に過ぎません。御本尊と信仰者、そのシンプルさのなかにすべてが収まるのです。

    わたしは僧俗和合を願っております。そのためには宗門のなかで聡明なリーダーの出現が待ち望まれますが、簡単ではありません。また創価もドグマの嵐に襲われ、対立のもとになる寛容心の涵養を忘れたようです。唯一絶対正しいなどと誇大妄想に等しい異常な自我肥大は、エゴのかたまりであり、常に争いの元凶です。ある程度の規模に発展した宗教組織は、絶えず集団エゴイズムという危険にさらされているのです。創価には、自分で自分を客観的に評価できないナルシストがなんと多いことだろう。創価オタクを遠慮なく言い換えれば、自分の行為の意味も理解できず、フレキシビリティーに乏しい不毛な創価バカのこと。自律的に自己を再生することが重要な信仰コンテンツなのに、与えられたものだけで満足し疑問に思わないなんて、一体どんな目的で御本尊を見つめているのでしょう。菩薩にも盲信の罠が待ち構えていることを、心して備えておかなければなりませんよ。
    老齢の池田先生に、その指導性を求めるのは、もう無理なことなのでしょうか。老い衰えても、正常な判断が可能な状態にあるのでしょうか。問題を置き去りにする、一貫性がない無責任な師です。
    問題意識を怜悧に持ち、聡明なインテリジェントを結集しない限り、無秩序と混迷が渦巻く世界に、創価の旗を立ち上げることはできないでしょう☆彡


       
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