
その「あさイチ」のなかで、出しゃばりの青木さやかが担当の 特選!エンタ というコーナーがあって、映画は好きなので見ていたら『エタニティ・永遠の花たち』の紹介がありました。フランス版女の一生といった雰囲気のストーリーですが、ヒロインの演技派女優、ドレイ・トトゥに惹かれました。そして、あの名作『ロング・エンゲージメント』(2004年)を思い出しました。一部評価は低いようですが、わたしは傑作だと思う。
『ダ・ヴィンチ・コード』で、トム・ハンクスと共演したときは、ハリウッドには少し似合わない女優さんなのではと思いました。フランス流のエスプリとおしゃれがお似合いですね。
A Very Long Engagement(とても長い婚約)
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
出演:オドレイ・トトゥ、ギャスパー・ウリエル

華やかに上品に可愛らしく
庭に咲くバラは
誰が見ていようと見ていまいと咲きほこり散る
絶望のなかでも諦めず
強く信じ続けて
あなたのことをいつも思っている
世界の片隅で起きた奇跡の物語
誰もが善良で優しく
心にかけて心配し
奇跡が起きることを望んでいる
幼い頃の病気の後遺症で、脚が不自由なマチルド。戦場に旅立った恋人マネクの帰りを待ちわびていた彼女のもとに、ある日、マネク戦死の悲報がもたらされる。彼を含めた5人の兵士が、軍法会議で死刑を宣告され、武器も持たずにドイツ軍との中間地帯に置き去りにされたという。だが、マネクの最期を見届けた者はいない。不思議な愛の直感を信じるマチルドは、マネクがまだどこかで生きていると確信する。以来、彼女は私立探偵を雇い独自の調査を始めるとともに、自らの直感を頼りにマネクの消息をたずねて回るのだった.....。
前向きで聡明な彼女は、たとえ彼の死亡通知がきても、運命の糸を手繰り寄せて、願いが叶わなかったとしても、覚悟はできている。その糸を自分の首に回すだけ。彼なしの世界がどんなにつまらない灰色の世界であるかということを知っている。
彼女の直感が、彼が生きていることを告げている。
第一次大戦を背景に、戦死の報せにも婚約者の生存を確信し、愛の絆と直感を頼りにいくつもの謎を解き明かしながら、愛する人の捜索を一途に行なう一人の女性。ファンタジックなブルターニュの美しい風景と悲惨な戦場のリアリズム。気の利いたエスプリを交えてミステリアスに綴ってゆく。
彼が戦場に赴く日。別れに涙が溢れた。誰が、誰がこんな酷いことを考えるの?
彼と始めて結ばれた夜。彼はわたしの胸に手を当てて眠った。わたしの鼓動をいつでも思い出せるように。辛いときはわたしを思い出してね。わたしはいつもあなたのことを考えてるの。
「僕はかなり強いんだ。一日中でも君をおんぶできるよ」
幼いときそう言って灯台の上まで運んでくれた。灯台からは海の果てまで見えた。おだやかな海は平和な光に溢れていた。
戦争さえなければ平凡で幸せな一生を歩むことができたのに。
切ない恋愛物語でありながら、反戦映画だと思います。まるで肉弾戦のような戦場のリアルさに目を塞ぎたくなります。
日本でも戦争による、恋人や夫婦の、このような辛い別れを経験しました。時代や年代を越えて、しっかり記憶にとどめておかなければなりませんね。反戦は、過去を忘れないことから始まります。
あなたはわたしの杖、わたしの灯台。愛の時を告げる鐘。
美しい灯台が青春と愛の象徴的モニュメントのように感じられます。
A Very Long Engagement
美しい灯台が青春と愛の象徴的モニュメントのように感じられます。
A Very Long Engagement



この3年間、信濃町界隈には踏み入れておりません。大誓堂も見ておりません。行きたい、見たいという衝動も湧いてきません。多くの会員が集まる安全上、古くなった建物は新しく立て直さなければなりませんが、はたしてこのような建物が必要なのか、わたしは複雑な気持ちです。 大石寺に代わる総本山が必要だったのでしょう。聖地信仰は本能的なもの。その地に行くと浄化されるように感じるからです。
ピューリタニズムの適用は、決してキリスト教に限るものではないでしょう。また無教会主義の精神は、建物に象徴される権威の否定です。権威の多くは人為的に作られたものですが、よく観察すれば、自らの尊貴さと偉大さを誇示するためといってもよいと思います。伝統が浅い宗教組織においては、必要もないのに、どういうわけか、よく効く万能薬を宣伝するかのような、早急な権威作りが計画されます。よく言われる神格化という手法もその一つです。権威は信仰においてはドグマの核になるものです。正しいか間違っているか、有益か、無益か、自然か、不自然か、ただ単純な判断基準(直観も含む)に価値を置き、宗教判定するのが最も効果的であり、間違いがない方法でしょう。
宗門をみればよく分かるではありませんか。権威には、伝統や名誉、また得体が知れない秘伝口伝、相承なるものも付属します。ときには僧の代理結縁だったりして、平等であるべき人間を選別し差別します。権威で作り上げた有難いものの実体は、実は何も入っていない空虚な箱同然の代物なのです。また、釈尊の神格化と同様に、大聖人の神格化も行なわれました。凡夫であることが、重大で唯一の意味があるというのに。あるいは、神格化は、聖的あるいは神秘的人格化といってもよいでしょう。でも、仏は人であって人ではありません。妙法という法と一体の、理想的人格です。理性に保証された三世を貫く法が、普遍性を有するのです。
宗門との訣別は、この権威と神格化への訣別といってもよいのではないでしょうか。したがって、創価内においても、神格化は、決して行なってはならないのです。例えば、会則を変更し、池田先生を永遠の指導者とするといったことです。
宗門は、宗規を改正し法主絶対化を行いました。人間の絶対化に、どのような意味があるのか分かりませんが、つまりは法主の神格化ということでしょう。善悪に迷うただの人間が、制度を尊び、形式を導入して、本末転倒の解釈で、大聖人と同じとは狂っているとしか思えません。 不完全な人間の絶対化というのは、初期の設定から矛盾しています。法主の絶対化は、長い間に整備され、神聖化されてきた序列の絶対化に基因していると言い換えてもよいでしょう。
内容は違っても、制度、規約としては、創価も同じ形なのではないでしょうか。深い願望と押さえられない気持ちがあっても、形式で心を制約する行為は、最も慎むべきことなのです。宗教の公共性の初歩的な第一歩は、簡単に言えば、一般社会にも受け入れられる宗規の開放性です。人間と社会の普遍的理念を謳っているSGI憲章をみれば分かるのではありませんか。組織にとって憲章は、国家の憲法と同等の位置づけと言えるのではないでしょうか。そしてまた、なぜか規則を一つ増やしましたが、 SGI憲章と会憲はどのような関係にあるのでしょうか?
師弟間にある尊敬と信頼は、神格化とは全く異にするものです。逆に言えば、師弟間に自信と自己責任を持てない者が、神格化を考え、他にも強要するのです。学会中央のこのような軽薄さは、将来、宗門と和解する可能性を示唆しています。そのとき、現在の会則は簡単に変更することになるでしょう。紆余曲折はあっても適当な理由をこしらえて、宗門に下るのです。また、喜びが長続きしないように、聖教に掲載されているような、宗門に対する憎悪も長続きしないのです。現在でも一般会員は、飛ばし読みしているというのにね。
わたしは大石寺の大御本尊さまに、一度もお目通りしたことはありません。青年部のほとんどの人も、同じではないでしょうか。会員の皆さまも、大御本尊さまへの渇望は強いと思います。でも、宗教上の譲歩できない正義を曲げてまでお会いしたくはありません。自分を偽ることは、もう信仰とはよぶことができません。単なる個人の心的修養程度のものでしかありません。しかし、そんな強がりを言っても、人法一箇、大聖人のご生命であられる大御本尊さまに、一生お会いできないとしたら、こんな淋しいことはありません。
日興上人以来、数々の耐えがたき苦難を乗り越えてきたと思いますが、広布の真っただなかで、かつてない多くの信者が、自由に、大御本尊さまにお目通りできない異常事態はありませんでした。
大聖人の広宣流布への理想の実現が現実味を帯びながら、今まで経験したことがない変化のなかでの原理と応用の確執は、互いに正義を主張しながら、さらに大きな正義を犠牲にしたのではないかと恐れます。大聖人が望まれる、民衆主体の民衆のための民衆仏法という根底を揺るがしかねないものと考えます。このような原因と、異常な状況を作ることに不本意ながら関わったすべての人々が、等しくその罪と責任を負わねばならないと思います。創価はとんでもない泥沼にはまったかもしれないと考えますが、これも仏意なら何らかの意味があり、乗り越えなければなりません。このことについては、これからもよく思索していくつもりです。
また敷衍して言えば、世界中のあらゆるトラブルの原因が、この「正義が正義を殺す」という言葉に尽きるのではないかと思います。不信を背景にした正義は結局、何も生みださず、代りに修復できない破局を生むだけです。
権威が必要と考えるなら、まったく個人的内面のなかで、自負と同様、自らを鼓舞する力に変化する善の動機になったときだけです。
わたしは無冠という言葉が好きです。無冠の人ほど、強い人はいない。名誉も勲章も権威を飾るものです。そして権威は力の誇示であって、歴史の淘汰に耐えられないものと知っています。「虚飾は剥がれる」、どこかで聞いたフレーズのようです。力を誇示する人間は、無冠の無欲な人ほど恐ろしい人間はいないと感じて、差別し弾圧する。また柔和な態度で近寄り、懐柔しようと執拗に試みるのです。いやらしく、疲れを知らない根気強さで。
当たり前のことですが、信仰は大きな建物がなくてもできます。創価にもしも、投資するお金があるのなら、広布部員制度の変更を、まずはかるべきです。かつて、広布部員になるには、厳格な規定があったと聞きましたが、そういう規定に戻すことも検討すべきです。広布部員への参加は、どこまでも個人の意志によりますが、一般会員の寄付行為が、ご供養精神に適うものでも、実際は高額寄付を強調しているのであり、そういう指導にお金への執着を感じてしまうのは、わたしが間違った見方をしているからでしょうか?
ご供養などと言わずに、最初から寄付とすればよいのに。ご供養精神、つまり信仰の深さは、本人以外、誰も分からないのだから。実際、少額のご供養に意味があると思うし、法華経の精神に適うものだと思う。サービスと物質が過剰にあふれた社会のなかで、エココンシャスを意識した質素な生活、シンプルなスタイルほど、尊敬に値するものはありません。まぁ~、ご供養も教団に提供する信者のサービスの一部と言えないこともないのですけど。真の報恩感謝は折伏を行ずることであって、寄付金額の多少には、まったく関係ないと考えますが、善良な心を持っている会員の皆さまは、金銭的多少によって、創価への貢献度、満足度を計っているのではありませんか? よく表現できないけれど、とても内向き思考だと思う。なかには、供養の見返りに功徳を貰おうなどと餓鬼界に落ちる人もいますが、期待するところに功徳がないことはわかりきったことです。
「人間革命・第6巻」のなかで、総本山五重塔修復資金調達の件で、次のように書かれています。昭和27年のことです。
『全幹部は、一人の反対者もなく、喜んでこの調達に賛成した。そして、一世帯あたり百五十円の醵出に決定をみたのである。
「いままでも、いくたびか皆さんにお願いしているので、心苦しいのでありますが、百五十円だけ、真心の応援をお願いしたい。皆さんからの資金が集まりましたならば、私は御本尊様へ、この百五十万円を供えて、自分の生命を捧げるご祈念をいたす所存であります。幹部の皆さんは、ぜひお骨折りを願いたい」
戸田の謙虚な誠心は、全員の胸に強く響いた。参加者も、このことによって、御本尊様に心からのご供養ができることを、なにより喜びとしたのである。
戸田は、金銭に対しては、あらゆる不純を拒否して、異常なまでの潔癖を堅持した。とはいえ、現代の社会においては、資金なくして、どんな崇高な活動も成立しないことも事実だ。そのための必要経費は、会員の真心の自由意思に任せ、そのつど浄財を募ることによって賄えばよいというのが、戸田の信念であった。彼は、その必要が生ずると、いつも学会員に、その内容のすべてを提示して、必要経費を確保した。
まず計画があり、それを遂行するために使用する資金が募られた。金があって、それから計画を立てるのではない。彼は、いつも事をなすにあたって、大胆に金を使ったが、金に仕えることは一度もなかったのである』
宗教組織における金銭使用は、厳格な規定があることは承知しています。わたしは、戸田先生の異常なまでの潔癖さを求めたいのです。異常という言葉に抵抗があるのなら、頑固な潔癖さとでも言えばよいのでしょうか。
お金が集まるところには、お金に関係した問題が必ずといってもよいほど発生します。つまり、高額な余剰金、利益があればあるほど、管理することが難しくなってくるのです。これは会計監査とは別の問題です。無駄遣いするかどうかというマネジメントの問題です。お金自体に聖も邪もないのですから、宗教組織も無縁ではないのです。善の動機、善の手段、確固たる良識、情報開示を含むコンプライアンス・プログラムの問題です。いうなれば、組織運用の無謬性を信じている会員は、一人もいないということです。今まで、信じ難く不可解なお金に関係した事件もありました。あれもこれも、学会敵対行為、批判行為であると主張し、全部、魔の所為と結論づける自分勝手な論理が通用するはずがありません。
しかしここまで言うと必ずと言ってもよいほど、問題のすり替えが行なわれます。
例えばこんなふうにです。
「分かったわ。あなたが言うように、組織に問題があるかもしれない。でも、成仏云々、信仰には関係ないことよね。あなたは広布のために何をしたの?」
「会員が組織の問題に口出しすることはいけないことなんですか? 創価は会員のためにあるんですよ。問題があっては、会員のためにはなりません」、とわたしは答える。
広布推進には、ある程度の資金的裏付けが必要です。幼稚で自分勝手な論理で、学会の経理すべてを明確にするべきだなどと言うつもりもありません。しかし、一般社会常識から奇異に見える、今では当たり前になったマイ聖教と言った多部数購読は、会員数の伸び悩みを埋めるための手段としか思えません。会員の使命感と競争心、忠誠心に訴える懐柔の方針転換が、トップのどこかでかつて行なわれたのでしょう。宗教組織だから許される、真意を隠して負担を強いる見本です。絶対という言葉は使いたくないのですが、不自然なことは絶対によくありません。必ずそこには無理があるからです。非常識は長い時間を経た反復で常識に変わる。「非常識の常識化」という、知らず知らずの意識の逆転こそ形骸化の前兆です。非日常の日常化という意識の常態化は、大変に危険なのです。全く理性が働かなくなるのです。
アンチのお兄ちゃんたちが、迷惑なぐらいに過剰なしつこさで、ご親切な教訓でピリッと辛めに味付けして、ボキャブラリーが乏しいヒステリックさで、読むのもつらい単純さと貧弱なイメージで、大部分は低級論理と自己満足で、質問だけが唯一の幼稚さもおまけして、決まり文句のように口にするアレです、MC(マインドコントロール)。大真面目に指摘されると、おかしくってつい笑ってしまうけれど、笑いもMCだと言われそうね。
逆に、客観的事実の検証はいつも一応置いといて、アンチ君は、どこかにいるネットの魔王とひねくれ落第会員にアレされている。どこにでも、アンモラルで、自己責任に無頓着なアジテーターはいるものよ。言い過ぎかしら。ごめんなさい。こういうことを言うと、そっくりそのまま、自分に還ってくるから、気をつけなくっちゃ。 「お前も立派なアンチだろう」なんて。トラブルを好む人間は、レッテルを貼らないと安心できないらしい。妙法が複雑難解なように、心も複雑怪奇。善だの、悪だの、単細胞のような単調な主張って、つまりは頭が悪いと自分で証明しているようなもの。
わたしの悪い癖がでたわ。話が横道に逸れて、つまり何を言いたかったのか、初期のテーマをすっかり忘れてしまう、という無謀無計画なアレ。いつも戒めているんですけど、きっとこの性分は一生治りませんね。ほんとは、おしゃべりも適当なひかえめ女性になりたいと思ってるんですけど…誰も信じてくれませんよね。
つまりのつまり、理性が失われるから、したがってのしたがって、だからこそ、情報開示が必要と言えますが、これはわたしの推測なのですが、現在の創価には、批判に耐えるだけのフットワークがあるかは疑わしいと感じます。今まで見えなかった綻びが目につくようになったからです。
大誓堂は、その大きなに比例して、会員にとって大変重荷になる建物になるかもしれません。未来を見通し、聡明であることは決して容易なことではないのですね。無心で献身的なリーダーが望まれます。
信仰が個人の問題であるのと同様に、広布も個人の問題です。先生が、個人の変革を基本にした人間主義を行動の基調に据えるのは、依正という関係性の発展で、社会変革が行われるからであって、社会変革があるから人間変革があるのではありません。組織があるから人間がいるのでもありません。信仰は、宿命転換のための、他者への積極的な働きかけであり、結果として善の方向、創造の方向、生き生きとした再生へ向かうブッディズム・ムーブメントへとつながる。信頼と他者共存の愛に満ちた文化は、このプロセスのなかに育まれ、社会の底流に流れて生活を潤します。『対立と二律背反を超える”縁起”の智慧<ソフト・パワーの時代と哲学>』(ハーバード大学講演・1991年)に蘇生への自在な力と調和を認め、法華経の開示悟入の現代的解釈と考えられる師の精神・人間主義の継承を願い、誓う。
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『人は常にあらゆることを、信仰を通してではなく、理性を通じて認識する。前には、人は理性を通じてではなく、信仰を通じて認識すると説いて欺くことが、可能だった。しかし、人が二つの信仰を知り、彼が自分の信仰を説くのと同じように、まったく知らぬ信仰を説く人々を見るや否や、問題を理性で解決する避けがたい必要に迫られたのである。仏教徒が、マホメット教を知ったあと、なお仏教徒でありつづけるとしたら、それはもう信仰によってではなく、理性によって仏教徒でありつづけるわけだ。別の信仰があらわれ、自分の信仰を棄てるか、すすめられる信仰を棄てるかという問題がつきつけられたとたん、問題は否応なしに理性で解決されるのである。もし彼がマホメット教を知ったあと、なお仏教徒でありつづけたとすれば、仏陀に対するそれまでの盲目的な信仰が、今度は必然的に、理性的な根拠にもとづいていることになる』
<人生論:トルストイ>
『余は個人の善ということは最も大切なるもので、すべて他の善の基礎となるであろうと思う。真に偉人とはその事業の偉大なるがために偉大なるのではなく、強大なる個人性を発揮したためである。高い処に登って呼べばその声は遠い処に達するであろうが、そは声が大きいのではない、立つ処が高いからである。余は自己の本分を忘れ徒に他のために奔走した人よりも、能く自分の本色(本領)を発揮した人が偉大であると思う』
<善の研究:西田幾多郎>
『われわれが当面する人為的な諸悪は、人間の貪欲性と侵略性に起因するものであり、いずれも自己中心性から発するものです。したがって、これらの諸悪を退治する道は、自己中心性を克服していくなかに見いだせるはずです。
経験の教えるところによれば、自己中心性の克服は、困難で苦痛をともなう課題です。しかし、同じく経験のうえからいえば、人類のなかにはすでにこの目標を達成した人々も何人かいるのです。もちろん、彼らは完全にはできませんでしたが、それでも彼ら自身の生き方を大きく変革しましたし、さらにそうした彼らの実例に啓発された人々の行動をも変革するに至っています。このように、すでに一部の気高い人々が、革命的な度合いにまで自己中心性の克服を成し遂げているということは、同じくどんな人間にも、必ずある程度まではそれが達成できるということです。聖者といえどもあくまで人間であり、彼らが実行したことは他の人間の能力をまったく超越したことではないからです。
人類の生存に対する今日の脅威が人間自身に起因しているというのは、恥ずべきことです。しかも、自己中心性克服への精神的努力を払いさえすれば、われわれにはまだ自己を救済する力があるのに、そうした状況のなかでもなお自己救済を怠ったとしたら、それこそ、ますますもって恥ずかしいことです。われわれは、そうした状況にあることを恥じ、もって自己克服への努力を払う刺激とすべきです。さらにまた、われわれはそれに成功する力をもっていることを知り、そこから希望と勇気と活力を得て、この機に応じて立ち上がるべきです』
<21世紀への対話:アーノルド・トインビー>
国政選挙では、「希望の党」が注目を集めておりますが、リーダー不在はどの政党でも共通した課題です。民進党は最後までみっともない姿をさらしました。「希望の党」は、個人で堂々と主張できない人ばかりの集団になりそうですね。
小池党首の政界世渡り術を、市民も学習しつつあります。決して美しいものではありませんが、実力以上の得票があるかもしれません。
政治はもともとセンセーショナルであり、ファッショナブルなものです。国民は、強い扇動者に弱いんですね。小泉元首相の手法と酷似していますが、女性でもありますので、その亜流と考えたほうが正解です。本心がなかなか読めません。
公明党では、長沢副大臣の議員辞職がありましたが、公私の意識低下と議員としての質の低下は、今後も続くことでしょう。気になったのはいっしょに飲み歩いていた人物が、現役の創価の副会長だったこと。以前から、信仰者らしからぬ行動が知られていましたよね。事実は分かりませんが、こういうことはきっと、創価執行部の承認を得ていると思うのですが、宗教団体に相応しくない政界工作の疑いがあります。謀略好きな体質は、先生の一部を受け継いでいるのでしょう。山崎も原島も、竹入も矢野も、先生の命の一部なのです。仏法の法則から考えても、組織は、そのリーダーの命が反映し、また命の範囲からはみ出ることは決してありません。宿命とか、眷属とか、善悪不二とか、御本尊の命のなかでは、諸天も諸悪も差別がありません。
公明支援者はなにも心配しなくてもよいと思います。与党であることを最優先する姿勢は、どの党が政権をとっても変わりありませんから。大臣を出すことが、創立者の意を受けた公明党の使命。権力志向がとても強いのですが、それを政策実現のためという巧妙な詭弁で納得させてしまいます。
永遠のなかの一瞬ではなく、一瞬のなかの永遠でありたい、とご祈念しています。御本尊さまは聞いてくれるでしょうか?
信仰がある人もない人も、迷える人も、果敢に進む人も、失意の人も、努力を惜しまず尽くす人にも、わたしは共感を寄せる。わたしはわたしであって、わたしではない。他者であろうと努める自己です。ともに喜び、ともに悲しむ自己と他者の間に、菩薩の精華が秘められています。
慈しむべき多くのあなたのために、つつましやかに闇夜を照らす灯火になりたい。
青年に栄光と幸福あれ!
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