ポピュリズムの毒虫

    毎朝の変わらないセレモニーのような自分を省みる時間。
    当然のこと、部屋を見渡すと、きのうと何ら変わらない佇まいがあります。
    母が弾いていた古いタイプのエレクトリックピアノ。どこか1音、キーが狂っています。カウチと小さなガラステーブル。これも古びたチェスト。骨董品屋さんから値切って買いました。カーペットの上にファッション雑誌が投げ出され、夜に聴いたCDケースが開いたままになっています。
    いつもと同じ!
    祖母から母へ、母からわたしに贈られたネックレスは、ダイヤが散りばめられた精巧な細工のもの。弱い不思議な光を放ち、何か特別なエネルギーに満たされていると感じるのは、スピリチュアルな心の所為なのでしょうか?
    祖母から伝わる女の想いが染みているようです。わたしは、滑りが悪く、力を入れないと開かないチェストの引き出しに投げ入れています。
    忙しい毎日のなかで、自分が失われている。
    失いそうな自分が、失いそうな自分を哀れみの瞳で見つめている。
    最近、時計が止まったように、創造力がうんともすんとも音がしないのは、わたしの泉が枯れたのか、何も感じない自分がいたりする。

    ♡お昼には、大騒ぎでパンケーキを作り(実は甘いものが大好き)ネギをきざんで、卵と一緒にフライパンで適当にかき混ぜて焼き(最近はネギが欠かせない素材なんですの)あとは、冷蔵庫のなかにあった塩鮭を焼いて、総じてお子様ランチ風のメニューになりましたが、美味しくいただきました。わたしは母親に似て、チョット食べ物に神経質なところがあるのです。
    彼は、お料理の腕がわたしより上。だから餓死することはないだろう。

    <約束の地は砂漠のなかにあってこそ奇跡です>
    ルシール・マリア・カートのミステリアスな日記断片から。

    <約束の食物は食卓の上にあってこそ奇跡です>
    アンナのインスピレーショナルな日記断片から。

    当たり前のことが当たり前でない時代。美味しいお料理を美味しくいただき、楽しい会話の食卓に、幸せの奇跡があると考えるのです。 腕を上げて約束の食物を食卓に並べよう。 努力しよう。

    ♡わたしは、性格的に大雑把なところがあります。もちろん自分でもよく自覚しています。ですから、実際的な数値や事例をあげて、緻密に検証する理科的能力に劣っています。言ってみれば、一般的にいわれる女性脳が不得意とする論理的分析を苦手とし、感情論に陥りかねない表現になってしまいます。大雑把で感情的って、友だちになりたくないレベルかしら。
    でも自分で言うのも気が引けるのですが、直観的感覚に優れているように思えるのです。また細部より全体、それなりにコーディネートされて、雰囲気がでていればOKというこだわりのなさ。ですから、家事その他、家庭的なことは、できるだけ手を抜かないようにしていますし、自分ができる範囲の自分らしさが大切と考えています。料理教室にも根気よく通っていますし…
    どうでもいいことですね。

    ♡そんなわたしも、わたしなりに論理を尽くしお話しても、まず支援ありきという姿勢には変化がありません。そんな頑固な壁の前で、いつも挫けそうになってしまいます。粘り強い改革意識を継続しなければならないと、自ら戒めています。
    はっきり申し上げれば、組織疲労というものがあれば、現在、創価はその過程に落ち込みつつあると感じられますが、いずれ誰の目にもあきらかになるような形で、問題は顕在化すると考えています。すでに公明党は与党疲れで新鮮さがなくなり、刺激が欲しくなって、不倫が流行しているようです。

    公明議員さんは、他党の議員さんに比較すれば、どの方も献身的に行動し、支援に値する方ばかりと思っていましたが、最近は、そうでもないようですね。予想以上に深刻な事態かもしれませんが、一般会員には注目外ということなのでしょうか。議員の低質化は続いていきますが、創価・公明党といえども人材不足はどうしようもありません。辞退した議員候補の代理として、鰐淵洋子さんを引っ張りだしてきましたが、平成22年の参院選挙の候補になったときもそうでした。現議員であるにもかかわらず、重点候補から外し地域割りを与えられませんでした。年寄り議員の犠牲になったと理解しています。困ったときの便利屋なんですね。若い優秀な女性の才能を殺してしまう組織には、ろくな組織はありません。電通しかり、NHKしかり。党職員とはいえ、女性に対する扱いが垣間見えるような気がします。創価でも、セクシュアルハラスメントが堂々と古い価値観とともに内在していますが、誰もが見て見ぬふりをしています。
    また議員プロフィールと政策の善し悪しは別問題です。年金や子育てを含めた社会保障、消費税問題で裏切られてきました。庶民の代表とはとても言えないと考えています。

    創価では、革命という言葉は、死語になりつつあります。勇ましい言葉の実体が、選挙のなかだけとは悲しいことです。例えば、きのう(10月7日)の聖教では、「四国が猛攻撃。共戦の志は胸に赤々と」寸鉄。四国では戦争をしているらしい。きょうの寸鉄では、「埼玉・茨城・群馬・栃木が破竹の快進撃。大関東に正義の勝鬨を轟かせよ!」。余りにもあからさま過ぎて、恥ずかしくなります。これは創価の特徴であるアーミー風の、単なる表現上の、F取りを鼓舞するため言葉の使い方に過ぎません。また依然として、宗教組織は軍隊式という、古い体質を維持している証拠です。80才に近い執行部では仕方ないことです。
    革命とは総体的なものですが、民衆の生活に直結した具体的な各論に、仏教的視座を考えないで物事が解決するだろうか、と思う。わたしたちが望む改革が成し遂げられるだろうか、と考える。
    精神論ではない。仏教の教義論でもない。具体的な社会設計と制度設計、秩序の再構築の問題です。自分の生活維持の喫緊の問題です。そして、このような問題解決に創価的使命感を強調するのであれば、なおのこと、民衆のためという大義名分を大切にしていただきたいと思います。
    また、政治的支援を個人の信仰と功徳にからめる指導はもうやめていただきたい。民衆のためにならない政治啓蒙、支援行動が、どうして功徳の源泉と言えるのでしょうか。善の行為でないものが、どうして命を潤すといえるのでしょうか。

    ♡ワイマール・ゲーテ協会顧問、マンフレッド・オステン博士と先生の対談で、次のような対話がありました。
    『オステン:そうですね。ゲーテは自分が生きている時代を支配している原理が、「性急さ」であると洞察していました。
    とくに「フランス革命」については、その思想自体には賛同していたと思うのですが、革命の性急さ、急進性という問題などが、生涯、ゲーテの頭から離れませんでした。
    つまり、人間の「平等」を速く実現させるために、結局ギロチンで多くの命を犠牲にして、暴力的に打ち立てようとしたからです。
    それにより、人間は理性を動物的に乱用して「動物よりもケダモノになる」という危険性が生じたという考えです。
    それから、「産業革命」の始まりにも悩みました。「今はすべてが悪魔的速度で、思考においても行動においても一瞬たりとも休むことなく走り過ぎていく。誰も自分のことを判っていない」と述べています。
    すなわち、加速した生産、伝達、輸送により「自己疎外」の状況に陥りかねないという危険が生じたのです。
    さらにゲーテは、「豊かさと速さこそ世間が称賛し、誰もが求めてやまないものとなった」「激しい競争の末、むしろ均質化してしまう」と述べます。とりわけ、あらゆる生活領域における拝金主義と経済化の危険を見ていたのです。
    こうした、あらゆる点で加速化が進む時代のなかで、「性急さ」がもたらす思考と行動は誤謬と暴力を生み、人間の「自己破壊」を引き起こすと、ゲーテは洞察していたのです。

    池田:それは、今日的課題でもあります。
    かつて「フランス革命・人権宣言200周年記念委員会」のバロワン会長が来訪され、記念行事への招聘をいただいたことがあります(1987年1月)
    その際、私が申し上げたことがあります。
    それは、近代の扉を開き、人間の自由や尊厳を勝ち取るために、フランス革命をはじめ産業革命や社会主義革命も大きな役割を果たした。
    しかし、真の人間の尊厳から見ればまだ限界があった。人間から出発し、人間に帰着する、さらに透徹した人間観・生命観を基盤にしてこそ、社会も健全に発展できるという点でした。
    だからこそ、博士が注目された人間の「自己破壊」という危険な兆候のなかで、ゲーテが人間の「自己形成」の模範を示し残した意義は、極めて大きいものがあると考えます。
    そして、このゲーテ自身の「自己形成」が、民衆との深い絆のなかで成し遂げられていったことにも、私は注目したい。
    ワイマールの若き大臣時代、ある鉱山町の庶民と交流した時の感激について、「この階級の人々こそ、神にとってたしかに最高の階級なのです。この人たちのところには、すべての美徳が集まっているのですから。切り詰めること、知足、まっすぐな心、誠実、ほんのささいな幸福を喜ぶ心、無邪気、忍耐ーー忍耐ーー不如意のなかでのふんばり」と綴っています。
    ゲーテは時に貴族的な点を指摘されることもあります。しかし、市民階級の出身のゲーテは、市井に生きる人々を愛し、庶民のために心を砕き、働きました』

    17世紀において、近代西欧人が脱キリスト教的科学信仰を選んだ歴史経過については、トインビー対談で詳細に論じられていますので省きますが、「若きウェルテルの悩み」「格言集」より読んだことがないわたしには、ゲーテがフランス革命、産業革命に懐疑的視点を持っていたことに少し驚かされます。
    対談では、ゲーテの人生の足跡をたどるという概説的趣旨から、深くは論じられてはいませんが、科学技術への信仰、ナショナリズム、共産主義の三つの宗教が西欧キリスト教に致命的打撃を与えたこと、それはカトリックとプロテスタントの分裂よりも重要な歴史的事件であったことなどは、現在の日本の知識人に、最も欠けている認識ではないでしょうか。
    ワイマール時代のエピソードに見られる人間的なゲーテの姿に共感しますが、庶民の美徳と、健全で忍耐強い生活者としてのたくましさが、今わたしたちが思案しなければならない資質です。

    理想的な目指すべき高度な福祉国家について、すでにトインビー対談でテーマとなっています。
    長くなりますが、引用させていただきます。
    『トインビー:現代社会は、成功とか幸福とかを、あくなき増大を続ける経済的豊かさに視点をおいて判断します。しかし、そうしたところにおかれる目標というものは、経済によっては達成されないばかりか、精神的にも充足を与えるものではありません。ただし、それが人間の努力への刺激となり、勤労の意欲をかきたてることは確かです。これは逆にいえば、自由競争経済の社会では、貧困化への恐れが人々に拍車をかけているということです。
    ご指摘のように、福祉国家においては、経済的保障が与えられるため、そのかぎりではたしかに勤労意欲が減退します。児童教育、老齢年金、国民医療といった、生活上必要なものが国家によって保障されると、成人者でさえ、賃金に対して、子どもが小遣いに対してもつような考えをいだくようになるでしょう。つまり、賃金というものは、目先だけの子どもっぽい欲望を満たすのに使えるちょっとした授かり物だ、と考えるようになります。そのため、人々は、賃金とはまず第一に教育や医療の費用として必要なものであるとか、あるいは収入が無くなったときに備えて貯蓄すべきものであるとかいう考え方をしなくなります。たしかに福祉国家は、国民が怠惰で非能率的な仕事しかしなくとも、または質量ともにお粗末な仕事に高賃金を要求したあげく失業のハメに陥ったとしても、なお自分たちの最低生活線は保障されているのだ、と考えることを奨励するわけです。
    この種の経済的保障は、生産性の低下だけでなく、人間に不幸をもたらします。人間は何もせずに何かが得られるとなると、それをうまく利用したがるものです。これは初めのうちは愉快でも、やがては気が滅入ってしまうものです。刺激がなくなって力がそがれると、人生は退屈で無意味なものになるからです。

    池田:そうした弊害を克服するにはどうしたらよいか――。私は、やはり精神的分野の開拓以外にないと思います。つまり、従来の概念による福祉国家において主目的とされるのは、社会保障制度と完全雇用、租税政策による衣食住の確保であり、あくまでも物質的福祉の拡充です。そこに欠けているものは、精神的福祉に対する十分な認識であるといえましょう。もちろん「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるように、ある程度の物質生活が、精神生活の向上のための前提であることも事実です。
    私は、現代人の物質と精神の関係に対する考え方は、根底的に転換されなければならないと考えます。これからの福祉社会においては、まず精神的福祉水準の向上を第一の目標とし、物質的生活水準の向上はそれを支える二義的なものとされなければなりません。つまり、芸術、学問、教育、宗教など、文化的水準の向上による精神的福祉の充実が優位におかれ、そうした高度な精神文化社会建設のための完全雇用であり、社会保障であるという基本的な思考法が要請されます。この前提に立つならば、労働意欲の減退や生きがいの喪失といった問題も解決され、人間の創造性も発揮されるものと考えるのです』


    高度な福祉社会実現への道程は困難なものですが、特に日本のように国家破綻を目の前にした危機のなかで、十分な経済的援助、物質的福祉の充実を追い求めるあり方は限界を越えつつあるものと思います。
    わたしは福祉の充実に反対しているのではありません。財源確保がすでに国家実力を上回っているのに、なおもまた、それ以上の福祉を提供しなければならないのか、という常識的意見を述べているのです。
    平等性は大衆が要求する飽くなき欲望の表れですが、権利を主張する前に義務を果たしてくださいと言いたいのです。義務とは納税するだけではありません。貧しさを認め、格差があることを認め、限られた自分の生活範囲内で、生をまっとうすること。精神的充足が生活をバラエティー豊かな夢のあるものにしてくれることを、それぞれが知ること。ゲーテが語った、不如意ななかでのふんばりを持つ努力を怠ってはならないのではないでしょうか。
    また援助や福祉は、当然お金の問題でもありますが、無い袖は振れません。サイコロも、なければ振れませんが、凶とでようとでまいと、誰の責任でもありません。全部、国民一人一人の責任です。こんな単純明快な賭け事が政治なのですが、イナゴの大群のように貪欲に食べ尽くす大衆は、利己的にさらに権利の主張を繰り返すでしょう。高邁な理論も振り手しだいですが、指導者とは欲望抑制を粘り強く、国民に語りかける者をいうのだと思います。そういう政治家は、一体どこにいるのでしょうか。ポピュリズムの毒虫が、社会の柱を食い尽くそうとしています。
    また、憲法改正に消極的な姿勢は、真の保守からは程遠いと言わざれを得ません。いつまで、アメリカの核の傘のしたで、中国や北朝鮮の脅威を論じているのでしょうか。国民は独立心が希薄なようです。絶対平和を主張し、平和主義者であることを自認し宣言している創価の会員も、足元の憲法にはほとんど無関心です。女子部のとき、憲法議論を聞いたこともなければ、政治学習で積極的に取り上げたこともありません。ミサイルが飛んできても、Fにだけ関心があり、福祉を議論している平和な政党なのでしょう。面倒なことは先送りして、とても滑稽に見えてきます。

    逆境に耐え、克服していくことが、創価精神の一つのテーマですが、わざわざ作らなくてもよい逆境を作り、挑戦して行こうと考えるのもおかしなことですし、またその逆境を克服していくことが幸福につながると主張するのも矛盾した論理です。
    政治が国民のためにならないのなら反対するのは当然で、公明党がどのような政策を掲げようと、とにかく支援ありきとは、目的喪失の危険な兆候と見なしても間違いありません。組織の中心者は、単に扇動者と揶揄されてもおかしくないのです。逆境にいること自体に、意義を見出だしているような詭弁がまかり通っては、人間主義の名が廃れます。
    幹部のなかには、苦しまぎれに、困難だから支援も功徳があると強調する人もいますが、わざわざ困難を作るなと言いたいのです。行動は目的地があって始めて行動たる意味があるのであり、目的を持たない行動などありえません。

    いちかばちかの戦いを力の限り続ける以外にはありませんでした。そのようにして私は今日までどうにかきりぬけてきました<ゲーテ>


    Louder Than Words
    Les Friction




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