パール・バック「母の肖像」(「新潮文庫」村岡花子訳)からの引用。
この作品は、数十年間中国にキリスト教伝道をした宣教師の妻として、故国から離れて暮らした女史の母を描いたものです。透徹した愛情と、母に代わり自己表現を試みた崇高な叙事詩、文学的生命が溢れた感動的な生活記録です。

病めるもの、牢獄にあるものを訪れ、寡婦みなし子を憐れみ、飢えたるものを養い、悲しむものと共に泣き、喜ぶものと共に笑いながら、それでもなお足らずとして自責悔悟の念に苦しむ人々があるが、母もまたその一人であった。求め求めた神の前に立つとき、みずからの足らざるを悔いながら、へりくだった心で
「主よ、いつ私はそれらのことをあなたのために致しましたでしょうか?」と恐る恐る尋ねる人がある。こういう人に対してこそ神は、
「彼らになせるは、我になせるなり」と答えるであろう。
しかしながら、よしんば母自身は失敗だと思うにしても、彼女をめぐって生活していた私たちにとっては、何と素晴しい生活であったろう』
音楽を愛し、聴きながら涙する母。新しい時代の抵抗精神を持っていた娘パールに諭すように言いました。
『音楽には相当に知的な理解は持っていたが、母にとって、音楽というものは、常に本質的には一種の感覚であり、情緒であった。私が生意気ざかりの青春期にはいった時分、母のこの傾向にどうも辛抱できないことがあった。彼女は偉大な音楽を聴くと必ず涙を流さずにはいられなかった。苦痛の涙ではない、あまりにも鋭敏に、興奮しやすくつくられている心は、音楽の美を冷静に享楽することができないほど、速やかに共鳴して涙がほとばしるのであった。若い娘の高慢から私は言った。
「泣かずには聴けないんだったら、聴きに行かなけりやいいじゃありませんか」
母はじっと私を深い眼つきで見ていたが、やがて口をひらいた。
「お前には分からないよ。まだ分からないよ。分るはずがないよ。まだ人生を知る時間を与えられていないんだもの。いつかはお前にも、音楽は技巧やメロディーだけでなくて、人生そのものの意義であり、限りない悲しみと、堪えられない美しさとを持つものだということを悟る日が来るだろう。その時にはお前にも分るよ」』
少女時代から求めた神のしるし。そして母の信仰に対する姿勢は、宗教的権威から極めて自由なものでありました。
『最も楽しい瞬間にも母は自分の霊魂のことを忘れなかった。歓楽の絶頂に在って、友だちは彼女の冗談やしゃれに笑いころげている最中に、あたかもつめたい手が心臓の上にすうっと載せられたように、驚愕して考える。
「私の永遠の霊魂はどうなるのであろう?」
家の中の仕事をしながら、ふと眼をやった庭の風景の美しさに打たれて、天国という所はもっと美しいのだろうかなどと思うと同時に、鋭い痛みがずきずきと胸を襲って来て、
「でも、私はまだ救われていない・・・一体私は天国へ行けるのだろうか?」
そういうことを考えずにいることはむずかしかった。日曜日には教会堂での長時間にわたる礼拝、家庭では朝夕二回の祈祷、牧師は穏やかではあっても、肺鮒をえぐるような質問をする。父と母は、子供たちが全部「救われて」会員になるようにと熱望している。これらの事柄がみんな一緒になって彼女を圧迫して不幸にする。
けれども母を神に駆り立てたのは、地獄の恐怖ではなかった。私は母が何ものをも恐れたのを見たことがない。母の意思に反して強制できるほどに、怖ろしいものとして地獄の有様を描写し得る人があったろうとは、私は一瞬間も信じない。否、母は善良になりたいとの熱望に燃えていたのである。私たちにもしばしば諭して言ったことがある、
「善良であることは美しいものですよ。善い人におなり。地上で一番愛すべきものは善良の徳です」と。
母が神を求めたのは、それが善良になり得る唯一の道だと聞かされたからである。神から離れての人間の善良は「汚れたる衣」のごときものだと聖書は言っている。
神を求める不安のために、青春時代は不幸だったと、母は私に語ったことがある。友だちの中でももっと心持の単純な連中は次々に「回心」して、聖餐式に列した。けれども、反抗心と苦悩にさいなまれながら、母は小さな教会堂で聖餐のパンと葡萄酒の前に頭を振った。自分をも他人をも欺きたくない。彼女は祈りに祈りを重ねた。
当時の母の日記に次のように書いてあるのを私は発見した。
「十二から十五になるまでのあいだ、私は一週間に何回となく納屋のうしろの林の中に行き、ニワトコの茂みの中の窪地に身を投げ伏して神にしるしを求めて祈った・・・何でもいいから私を信じさせるしるしを求めた。時にはヤコブのように、神がしるしを与えたもうまではその場所を去らないと誓ったことさえあった。けれども、しるしは遂に来なかった。牝牛の頸の鈴の音が夕暮を知らせた。牝牛は乳をしぼられるために戻って来る。私も家に帰って食卓の用意をしなければならない」
幾度か彼女は日曜学校の受持教師で牧師夫人のダンロップ夫人のところへ煩悶をうったえに行った。温和で静かなダンロップ夫人は、この情熱的な、正直な少女を「まっすぐ救いに導く」ために力を尽くした。
「そのまま、神様に身を捧げるんです・・・それで充分なんですよ」夫人には、この色のくろい一本気な少女の心はよくは理解ができなかったけれど、可愛い可愛いの思いで一点張りの心を声音にこめてこう言うのだった。
「あなたの心を神様に差上げるんです。何にもむずかしいことはないじゃありませんか。ね、そうでしょう?」
けれども少女ケアリ(母)はそれ以上を望んだ。
「私は神様が確かに私を受入れて下すったということを知りたいんです。私は捧げることはできます。だけど、なぜ神様は受入れて下さらないんでしょう? なぜ、受け入れたというしるしを見せてくださらないんでしょう?」
これはダンロップ夫人の分別以上の質問であった。「何でもいいから、神様に身を捧げなさい。それだけでいいんですよ」と、繰返して言うよりほかはなかった。
その数年はケアリにとって、嵐にもてあそばれている歳月であった。神の存在を認めることのできない絶望は、しばしば彼女を反対の方向へ駆り立て、無反省無軌道な放縦と享楽へ躍り込ませた。時には、身内に沸き返る青春の血の恐ろしさを自覚し、救われる見込みのない悪人は自分だと思うこともあった。自分のうちに欲念がめざめて来るのが恐ろしかった。
この頃の母は色の浅黒い美しい娘で、年よりは成熟しており、ユーモアに富んだ、よく笑う娘であったが、また一方には、どんなに騒ぎ興じている時にも真面目さを失わなかった。赤い唇、匂やかな頬、栗色の髪が房々と「滝のように」流れていた』
『母はまちがっていた。アンドリュー(父)は彼の説教をどんなふうにでも手伝われたりすることは望んでいない。自分の説教に満足しきっているし、妻の助言などというものにはいささかの期待も懸けていない。彼女の好む讃美歌などは父には無意味に思われ、陽気すぎると言うのだった。恐るべき地獄が、この世のむこうに口をあいて待っているのに、この世の喜びや美などを歌っているのはもっての外である。
その上に、パウロの神学の、女は男に従属すべしという思想がしみ込んでいるアンドリューは、母が家庭を治め、子供を産み、彼のために日常の用事を弁じてさえいればよかったのだ。「男は女の頭なり」男を通じてのみ女は神に近づけると聖書は教えた。母が力の及ぶ限り、教会で婦人たちに教えるのは宜しい。すべての人の信仰と知識を試験し、教会員として受入れるや否やを定めるのは彼でなければならず、それは神の祭司たる自分の特権であり、その決定は絶対である。
父のこの気持を見て取った母の心中には、抵抗の血が湧き立った。善良な聖者であるが故に結婚したこの男性の本質を、今はじめて知ったような気がした・・・自分に対しては善良そのものであるが、心は狭く、利己的で、専横なのだ。何たる妄言であろう。女に生れたゆえに、神に直接行けないそうだ。大抵の男よりも自分の頭脳のほうが明敏で鋭利で透徹しているではないか? 神とは、アンドリューの神のごとき、そんなものであろうか? 豊かな頭脳と肉体とこの二つの賜を両手に持った母は、それらが喜び受けられることを子供のように信じ切って、捧げたのだ・・・その贈物は無用のものとして投げ返された。母は今にして初めて真剣にアンドリューの心の本質にふれたのを自覚した。
心に深い致命傷を受けたこの婦人の姿を描き出すに忍びない。自分から意識した言葉としては決して誰にも口外しなかったこの時期の母の生活に、解剖のメスを入れるには、私はあまりによく母を知り、あまりに親しく結びつけられている。確かに私たちは知っていた。時には制しても制し切れぬ痛ましい、烈しい言葉が母の口からほとばしり出たこともあった。けれど母は決して出放題にそういう言葉を吐いたのではなく、あとではいつも深く悔いていた。
女性に酷なる時代・・・宗教的生涯を歩もうとするすべての者に峻厳だった時代に、生れ生(い)で育てられて来た母としては、結婚の常道から離れようなどとは思いもよらなかった。いかに相剋する夫婦であろうと、いかにその結合が空虚な殼であろうとも、いかに内面生活が相隔たっていようとも、外面のつながりは断つべきではなかった。いかなる強い愛の結合よりもなお一層強いものは宗教と義務の鎖であった』
『神への瞑想と布教のことに気を取られている彼(父)は、妻の同伴を求めることを忘れており、気の強い母もまた自分から決して口に出さなかった。もろもろの天を貫き、神を把握することができながら、自分の側に息づいている気の強い、孤独の婦人の存在に気がつかないとは、父も珍しく人間ばなれのした人物だったと思う。父から見ればケアリは単なる女でしかなかったのだ。私は母の性情がすっかり曇りを帯びてしまうのを見て以来、聖パウロを心底から憎んだ。聖パウロの神学は過去において、私の母のような、自尊心の強い、自由を愛する女性の多くを、単に女であるというだけの理由で、どれだけ呪って来たであろう。すべての真実なる女性は彼が女の上に加えた束縛のために彼を憎まねばならぬと私は思う。この新しい時代になって聖パウロの権威が弱くなったことを、私は自分の母の名において、喜ぶ者である』
『神のことはほとんど口にしなかったけれど、聖書を読んでいる母の姿はうら淋しかった。老年のしのびよって来るのを感じながら、みずからの生涯に計画したことを何一つ成就しなかった母は、再び昔の神を追求する心に返りつつあったのだと私は思う。しかも神はこの長い年月の間に一度として母に明確なしるしを示さなかった。新聞や雑誌で心惹かれた詩の切抜きをはさんだので、母の聖書は厚くなっていた。大部分は短い、悲しい詩やあるいはその愛する自然を歌ったものであった。母が死んでから私はそれを全部読んで、この頃の母の心の琴線に触れる思いがした。幼な子の死や故郷から流離した人々をうたった詩や、未だ神を見た者はない、ただ信仰によってのみその存在を悟らねばならぬと書いてあるものばかりだった』
「母の肖像」のなかで重要なテーマを占めるのは、夫婦の相容れない相克でしょう。
神に仕える聖職者としての父は、信仰に厳格であっても、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。信仰が自発的な意志=自由を土台にしたものであるにもかかわらず、形式的な解釈や教理から脱した論理的思考への可能性を閉ざしても、疑問に感じない夫。教条的な原理原則に束縛された、形式的な説法といった権威のなかで、自由な精神が失われいく。
本来の闊達な生命の躍動が得られない形骸化した活動は、我々学会員も経験しています。宗門の恐ろしいまでの時代性への無理解は、あらゆる宗教が陥ってきた創造性の欠如というものです。 真の宗教心は創造性から湧き上がってくるものなのです。
弛みない求道者であったパールの母は、波乱の生涯で明確な「神のしるし」を見ることはできませんでしたが、夫よりはずっと神に近かったと考えます。神の代名詞は、自由の実現ということだからです。
妙法の信奉者は、同じ苦労の果てに「しるし」を見ることが可能でありましょう。日常の雑多な些事、悩み、人間関係の行き違いなど、わたしたちを路頭に迷わすものは数限りなくありますが、考えることを諦めない賢明な迷者であり、求道者であれば、真理も灯のように虹色の光を放ち、待っていてくれると信じます。
わたしたちが誰かに与えることができるものは、財産や名誉でなく、信仰者としての姿勢そのものに価値を見出だす変革の思想に外なりません。それは父母から子に伝える最も重要な生き方のマニュアルというものかもしれません。
ピューリタンであれ、ブッディストであれ、信仰者としての姿勢は変わるものではないでしょう。信仰はどのような境涯に達しようと、常に疑いが内在しているのです。絶対という言葉を簡単に使うことを躊躇せざるをえず、絶対に対する概念の把握ほど難しいものはありません。妙法で難信難解と説かれるのはそのためであり、自分で気づかなくても無邪気さのなかの邪気のように、そして一本の刺のように、疑いは誰の心の襞にも突き刺さっているのです。信仰とはこの棘を絶えず意識することなのです。何も悩まない会員に時々出会いますが、そういう人に限って正義や悪、血脈や師弟だのと、口角に泡を飛ばして声高に叫ぶ。わたしには狂信者にしか見えません。人間や世界の仕組み、信仰や仏の存在がそんな単純なものなのでしょうか。
信仰とは聖なるものに近づくことであり、同時に不正と不公平の泥沼に足を踏み入れることであり、相反する心の葛藤に苦悶することです。実際、アンビバレントな感情の克服こそ至難な業はありません。それは人間の本質と信仰の基本に、深く関わっているからです。
親の娘に対する愛情は、息子に対するそれよりも単純なような気がします。それはいずれの親も、子どもに対する感情は変わらないのかもしれませんが、「子供たちこそ私の最大のロマンスだ」と、パールの母が言ったように、森の奥の大樹のようなドッシリとした確信で、複雑な心奥を照らす光のような明瞭さで、愛情のほとばしりがあるように感じます。そしてどのような親であっても、ずっと真金のぬくもりのように変わることがないと、聖なるものに誓って言えるのではないでしょうか。
妙法に対し、あるいは会員に対して、盲信とか、あやつり人形のような洗脳という言葉の評価は、人一倍信仰と自由に関して、敏感なアンテナを所有している会員には、全く的外れの指摘に外ならない。個人の内面であれ人間関係であれ社会のルールであれ、「信じること」のメカニズムを全く理解していない人が言うことです。信じることは最も高貴な行為であると同時に、勇気のいる行為であることを知らねばならないでしょう。
また、人生において、少しでも意味あるものに出会いたいと考えるなら、献身と諦めない心を持続する信じる行為は、自己のなかにいるもう一人の最良の友として力強いパートナーシップを発揮してくれることでしょう。
*20世紀を生きたアメリカの女性作家パール・バック。
『大地』『母の肖像』などの作者として有名な彼女は、自らの母をこう讃えた。
「母はどんな場合にも恐れたことがない」
「(母は)微笑を惜まない」
そして、「(母は)最後まで若々しい精神を持ちつづけ、不屈不撓、寛大」であったと。
まさに創価のお母さんの姿である。
(「第14回本部幹部会 第一回全国婦人部幹部会 でのスピーチ」2008・01・16)
スピーチは、ケアリ(母)が信仰に深く悩んだことを言わない。神の伝道師のように悩み、神の給仕のように人々に尽くしたことを説明しないで、娘が自画自賛する母の姿の一部分だけを強調して紹介している。この本はアメリカ的理想主義の影響がある文章なのです。
不勉強な婦人部は、自らの姿を重ねて、信仰は違っても女性として共通していると錯覚し誤解しています。自己否定寸前まで落ち込みながらも、強い意志で自己を励まし続け、信仰を求めた深い愛情と人間性を思い描くことができない。そして、その人道的慈愛は、賢明な娘に受け継がれました。親は口だけでなく、その生き方、姿を示して子どもを諭さなければならないことがよくわかります。悩む親の姿も、子どもにとって立派な教師であり続けると同時に学習の最良のテキストなのです。
その後、娘は耐えられない悲しみに出会います。そのとき、母の生き方が心のなかにあったからこそ、荒れ狂う大地のうえでも強く生きることができたのだと思います。
この小説で描かれるケアリの夫は、宣教師でありながら、信仰に凝り固まった盲信者。人間性を自由にする信仰の意味を、全く理解していない。神の概念を理解していない。日常生活も閉鎖的で、恐ろしく教条的。このような姿は大石寺の僧侶像とイメージが重なりますが、最近は創価の執行部にも同じものを感じています。先生が著しく指導力を無くしていることが原因と思われますが、それに乗じて、都合の良い解釈を作り上げ、正当化している幹部がいるのでしょう。会員は賢くなければ、賢い信仰を続けることができなくなるでしょう。会員の善良さも、思索した善良さでなければなりませんね。
2日のお誕生記念日が過ぎたばかりなのに、こんなことを言うのもなんですが、先生がお亡くなりになれば、必ず先生原理主義がはびこります。師弟不二なのですから、そのご指導を永遠に原理としていくことは弟子の努めですからね。推理力でカバーしながら、または新たな解釈を作り、先生の本意はこういうことなのですと、原理主義者は語るだろう。本意などという言葉はあてになりませんよね。本意の本意、さらに深い本意などと三重にも重なった本意が勝手に作り上げられ、永遠の指導者の三重秘伝抄も編纂されることでしょう。
疑うことを知らない純粋な会員さまに、わたしのような不純な会員が遠慮しながら申し上げますが、こんなもっともらしい指導が出てきます。つまり、聖教にも、会合でも紹介されなかった先生のご指導、限られた幹部より聞かなかったご指導、秘密にしておいた大事なご指導、ということで、今までと真逆のもっとらしい指導が必ず登場することでしょう。わかっていながら警鐘を鳴らさない先生、注意喚起をしない先生、会員のことを本当に考えているのか、疑問です。どうか創価を愛していらっしゃるのなら、パール・バックがわが子のために生涯を尽くしたように、遺言ではっきりと明言して下さい。愚かで自分勝手な弟子ばかりなのですから。
- 関連記事
-
- 心の英雄 (2017/12/23)
- 母の肖像 (2018/01/06)
- 母であることの喜びと悲しみ (2018/01/13)
- 不変のものと変容するもの (2017/12/13)
Tag :パール・バック