普遍的知のゆくえ

    疾走する精神
    以前、量子論に知的興味を持ち、初歩の初歩なる本を読んだのですが、よく理解できませんでした。茂木健一郎氏が「疾走する精神」のなかで量子論を解説しておりますので読みました。量子論の多世界解釈から、多様性についての論及があり、複雑な現象と多種多様なシステムから、普遍的な原理に行き着くことの難しさを説いています。
    この本で茂木氏は、煩雑で目的が失われているように見える基本的な思考のプロセスを分かりやすく、秩序だった順序で整理。持続可能な「多様性」と生物をはじめ世界に通底する「普遍性」、さらには驚きと学習機会を提供するランダムに発生する「偶有性」など、知への道筋を明らかにして、グローバリズムのなかでの人間精神の可能性を説き、システムとしての脳、音楽をはじめ芸術文化の論理的考察から、インターネットによって急速に進む標準化への懸念を示す。その一方で学びからの「知」の復活を予言している。
    また「多様性を生み出す普遍性の力強い作用」を解説しながら、普遍的原理に至る人間の叡智に希望を見い出だそうとする姿は、真摯で科学者らしく、理知的な論調で好感が持てる。茂木氏は「知」によって、混乱と画一化の概念を打破し、美しい多様性をあるがままに認めながら、現代が抱える諸問題は、生命哲学の根幹と深く関係していると厳しく洞察する。一般書でありながら、茂木氏にとっても、一つのエポックと言える本ではないかと考えます。

    『イデオロギーがその力を失って、久しいと言われる。どれほど魅力的な考え方でも、もしそれが、この世の中が複雑で多彩なものたちから成り立っているというありのままの姿を無視するものであるならば、必ず反生命的になり、自然の摂理に背くことになる。
    この宇宙の中で、そして私たちの住む地球の上で、何億年、何十億年にわたって起こってきたことをありのまま見つめれば、そこに現出しているのは広い意味での「生命原理」であることに疑いを挟む余地はない。どれほど力強く、永続するかのように見えるものでも、それが「多様なるものに潜在する豊穣」という生命原理に背くものであれば、必ず滅びる。むしろ滅亡し、消滅することこそが時間軸における多様性を保証する宇宙の法則ではないかと思えるほど、不滅と思われたものはやがて消えゆき、思わぬ伏兵が舞台の中心に躍り出る』

    『この世のありさまを理解し、私たち人間の由来するところをよりその深層においてとらえ、深く隠された新たな真実を明らかにしようとする人間の営為。そのような知的志向性のことを、ここでは「アカデミズム」と呼ぼう。
    「アカデミズム」という言葉は、古代ギリシャにおいてプラトンがアテネ郊外に設立した学問の殿堂、「アカデミア」に由来する。爾来、西洋における学問はその雛形から大きな影響を受けつつ発展してきた。
    アカデミズムは、今後どのように展開していくのだろうか? 知がインターネット上に拡散し、次第に万人が無料で(自由に)共有するものになってきている今日、「大学」とか、「学会」といった組織においてアカデミズムを定義するのは不適切になってきている。
    私自身は、アカデミズムを、「圧倒的な知の卓越」への志向としてとらえる。そのようにしてはじめて、より包括的な、高い知を求める人類の凄まじいまでの情熱、その無限運動の本質を指し示すことがでぎるのではないかと考える。
    美貌、富、名誉。およそこの世において、人々の欲望をかきたて、憧れを喚起するものは多くある。人は、正しいことよりも、自らが望むことをなそうとする。人の道にかなったことがなされる時でさえ、それは、「正しいことを行う」ということ自体か欲望の対象になった結果であることがしばしばである。
    人がアカデミズムに憧れるのは、必ずしも立身出世を図ろうとしてのことではないだろう。知を自らのものにする喜び、人類がこれまで蓄積してきた叡智の上に、さらに自分なりのささやかな貢献をなしたいという願いの切なさは、万物の霊長たる人間という存在の根底にかかわる心理的機微である。
    すぐれた知性を持つことほど、魅力的で、セクシーなことがあるだろうか? 「美は皮膚だけの深さしかない」(Beauty is only skin-deep)と英語のことわざにいう。何事も見かけだけが優先されがちな現代ではあるが、知の卓越は、目に見えないからこそ、もしそれが本物であるならば人々を魅惑し、心を動かす力を未だ持っていると信じたい』

    『しかし、長い人類の歴史から見れば、近年の日本の傾向など、ごく短い時期の徒花に過ぎない。人間の脳が本来快楽主義的にできていることを考慮すれば、また、プラトンが「饗宴」の中で活写したように「真実を知ること」が人間の最も根強い願望であり快楽であることを考えれば、本格的な知への志向が日本においてこのままずっとやせ衰えたままでいるとは考えにくい。
    実際、インターネットが無限の学びの可能性を開くに従って、知の卓越への志向が、再び復活しつつあるように思われる。少なくとも、私自身と、私の周辺においてはそうである。新しい情報環境が開いた無限の世界の中で、知が、再びその強靭さを取り戻すべき時が来たようである。近未来におけるアカデミズムの本質について一度考察しておくことは大切なことに違いない』
    『アカデミズムの本質は何か? それが専門領域に分かれた蛸壺的な世界認識であってよいはずがない。自分の専門のことはよく知っているが、他のことには疎い。それでは、「圧倒的な知の卓越」とは言えないし、何よりも人々の心を惹きつけない』
    『ある学問の枠組みにとらわれてしまうことが、本当の「知」からは外れることにつながる。……「圧倒的な知の卓越」を目指すことと、ある特定の学問体系に固執することとの間には、根本的な相容れない点がある。そもそも、才能とは過剰なものである。たった一つの専門性で満足してしまえるような知性など、もともと大したものではないだろう』
    『この世に驚嘆すべき新しい知が現れる時には、必ず、多様性の高度な凝縮がある。創造性は一般的な生命原理の一部分である。生物が交配を通して進化するように、人間が生み出す知もまた、異なる要素が凝集することによって先へと進む』


    レオナルド・ダ・ヴィンチのような、「知の巨人」「圧倒的な知の卓越」を理想とする茂木氏は、科学者であることに止まらず、あらゆる分野に興味を寄せ、世界を形作る真理と知の真髄に迫ろうとしています。茂木氏の良識は、謙虚であること、先入観を持たないこと、公平であること、「知る」ことへひたむきな努力を傾注していること。そしてそれらのことに、科学者として培われた透徹した目と判断基準を明確に堅持していること。
    「中央公論」誌上(2010年4月号)で、池田先生と茂木氏が往復書簡を交わされたことがありますが、長続きしなかったのは双方に問題があったからでしょう。宗教という豊穣の森のなかから、「知」の山頂の憩いの場での、生命の強靭さの発見には至らなかったようです。「知」へのあこがれだけでは限界があるようです。その後、茂木氏はその深い教養と科学的見識から、いろいろなシーンに進出。エンターテインメント化していったことはしかたがないことですが、科学的素養ではなかなか割り切れない訝しさを、宗教に感じたのかもしれません。

    この本のなかで、茂木氏は結論づけて言う。
    『ミルトン・フリードマン(1976年、ノーベル経済学賞)が言うように、「選択の自由」を感じるということは、私たちが人間らしく生きる上で必要不可欠なことである。しかし、それは、背後に原理原則があることを排除するわけではない。公正さ、機会の均等、地球環境の保護、生命原理、他者への思いやり、愛。私たち人間が、人間らしい社会を築き上げるために大切にしている原理は、「選択の自由」と両立する。それどころか、「選択の自由」のど真ん中を串刺しにしている。
    多様性を生かすのは自由意志である。その自由意志の背後にある人間原理とは何かを見きわめることが、現代における緊急の課題となる』


    自由と人間原理は、不可分の方程式のように相寄り添っている。経済、倫理、政治、科学など、社会の複雑な因果的プロセスを整理し、混迷から生命哲学の根幹を解き明かし、正常な世界観を認知することこそ、長い人類の進化においての最終的な作業になるでしょう。それぞれの人生を始め、困難な疑問に対する回答を提示するヒントがあるに相違ありません。
    わたしたちは、パソコンで検索し、誰もが同じものを見ているし、読んでいる。感じ方や捉え方は自由であるけれど、検索エンジンによって一律に整理された情報を、体験学習のツールと勘違いしながら、ときには疑問に感じつつも必要なものと認識しているのです。便利であることは知の退化をうながす側面もあり、また人間らしいコミュニケーション、感情や意志を伝達する言葉の喪失を意味すると考えるのですが、劇的な進化を遂げている情報環境に埋没する個性であってはならないでしょう。
    SNSから離れられない人をよく見かけます。わたしの狭い人間関係の範囲でも、その分布の標準偏差は平均的と考えますが、SNSのために生きていると思わせるような人を確実に見かけます。その不幸の程度を認知できないほど理性が失われているようです。もちろん、コメントやTB機能があるブログもその一部分ですが、わたし自身オタクっぽいところがあるので、つまり良く言うと熱中しやすい性格なので、宗教オタクにならないように気をつけています。特に冷静さが失われる創価フリークは嫌われますので要注意。知的怠惰のドグマティックという創価バカのこと。

    「知」とは内面を見つめることから始まると考えます。身近なことであれば、幸福とは何なのか? 家族の在り方や友情についての考え、社会との関わり方も含めて、常に答えを出さなければならないキー・クエスチョンとして、目の前に横たわっています。信仰とは、人間の生に対する根本的なプロブレム・メソッドであり、また主体的な自己研鑽と行動のとり方だと定義すれば、いつまでも他者に依存する弱き生命には、幸福の扉は開かないと言えましょう。
    わたしから言わせれば、批判するだけのジャーナリストの言葉は「(単純ではない)多様性」のなかからもいずれ忘れ去られるであろうし、「悪は悪のネットワークを作る」ことが普遍的原理の一つであれば、「正義が勝ち、悪は滅びる」ことも永遠に変わらない普遍的原理です。
    創価に対しての非難中傷も、よく考えてみれば一様に同じレベルです。根拠もなければ、納得させる論理的説明もない。感情的、あるいは悪意的に、あるいは創造力の欠如から、下から上に向って虚しく叫んでいるに過ぎない。自ら発した声は、雨が落ちて身体を濡らすように、やがて自らの豊かな命の海を黒く汚す雨となって降り注ぐだろう。「白法隠没」と説かれた仏法のパラダイム的法則は、いよいよ真実を写し出して余りあるものと考えます。「白法隠没」とはつまり、人心が病み蝕まれ、腐敗することなのです。創価内も例外ではありませんよ。永遠に続く「正常状態」など、どこにもありません。
    「知」への渇望、詩心と言われた自己実現と完成への創造性に対する問題、さらには音楽への憧れを、希望の方程式「妙法」の力で精一杯のトライを試みていきたいと考えるのです。
    なお、量子論に興味のある方は、新潮社から出版されているノンフィクション「量子革命」(マンジット・クマール・青木薫訳)を、最初にどうぞ!

    エキサイティングな茂木氏のこの本を読了して、なぜか少し快い興奮とおかしさを感じていました。わたしの脳はアバウトに80%は音楽に支配されているので、多様な音楽を聴き、そのなかから普遍的な真理に到達することは簡単なことではないと、頭の良い茂木氏は言っているように思えたからです。道は険しいのだ。そして険しいからこそ、行く先にはいっぱい楽しみが転がっているのだと嬉しくなったからです。
    ロックの神に唾をつけられてから、わたしの迷いの人生は始まったわけだから、この際原点に帰り、ロックなバリエーションのなかから、わたし自身を見直そうと考えました。早い話、あらためていろんな音楽を聴いていこうということです。
    小林秀雄が「表現について」のなかで書いています。
    『音楽を聞くとは、その暗示力に酔うことではありますまい。誰でも酔うことから始めるものだ。……音楽はただ聞こえてくるものではない、聞こうと努めるものだ。と言うのは、作者の表現せんとする意志に近づいてゆく喜びなのです』
    『音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆することだ。そしてそれは自分の精神の力にいまさらのように驚くことだ。空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずるように、私たちは誘われるのです』



    ビートルズという「知」
    名盤についての評価や楽しみ方、機能や目的はそれぞれ個人的なものと考えます。聴き方、感じ方は制約されるものではなく、自由な感性と嗜好の範疇ですが、アーティストが果敢に挑戦していくように、リスナーもまた敬意を払いながら、宝石を見つけ出すように、本質を理解する努力をしなければなりません。美しいものに近づくことは喜びであると同時に、知的興奮、アカデミックな探究心も満足させるものです。
    小林秀雄流に言えば、音楽を聴くということは、普段の自分自身を離れて、新たな自我(自分)を発見することでもあります。それは創造性の端緒になるチャンスを含んでいるわけですから、年齢に関係なく、また置かれた環境に関係なく、自分の可能性を信じることに他なりません。クラシックであれ、ポピュラー・ミュージックであれ、渇望してやまない充足感に浸りたいと誰でも格闘していると信じています。


    BMGL-ps.jpgビートルズに代表される60年代のブリテッシュ・ビートのモダンさは、新鮮なインパクトを与えてくれると考えます。わたしも始めてビートルズを聴いたとき、生き生きとしたロックンロールに音楽の楽しさを知り、そしてこれがロックンロールなのかと強いエモーションを感じたことを覚えています。今では一口にロックと言っても、混乱を招くばかりに細別されて、サブカテゴリーが増え、本来の意味を見失ってしまいそうですね。
    60年代、ロックと言えばマージー・ビート。ジェネレーション・ギャップを象徴するサウンドは、シンプルなバンドスタイルながら、激しくシャウトするボーカル・ハーモニーで若者の支持を獲得し、新しいミュージックシーンが熱狂的に歓迎されました。さらにモッズの洗練されたエレガント、R&Bルーツの反抗的なスタイルと、ロックンロールって大体そんなもんだったんではないでしょうか?
    (映画「さらば青春の光」を見ました。映画はあまり面白くありませんでしたが、ファッションや風俗は勉強になりました)
    現在、10代から20代のビートルズを聴く人が注意しなければならないことは、ベスト盤を聴いてわかったと早合点しないことです。ベスト盤は入門編として便利ですが、本当のビートルズ像に触れるためには各アルバムを聴くことを強くお勧めします。
    詳しくは読みきれないほどの評論や解説本があり、それらを参考にしていただくこととして、ここではデヴュー・アルバムからの1曲、「P.S. I Love You」をチョイス。

    P.S. I Love You - The Beatles (With Lyrics and HD)



    同名のラブストーリーが、ハリウッドで映画化されて世界的ヒットとなりましたが、原作者のセシリア・アハーンが若く可愛いらしい女性だったのには、少なからずショックを受けました。若くして世界的ベストセラーを書く才能とは、一体、どんな星の下に生まれた女性なのかと考えずにいられませんでした。題名からインスピレーションを受けることはよくあることです。作者がビートルズからインスピレーションを受けたのだと感じたのは、わたしだけなのでしょうか。
    リード・ヴォーカルはポール。まだ少年のようなあどけなさが見えます。ジョージはもっと若く、ジョンがバンドをリードしています。前奏なしでいきなりサビから入りますが、なんとも斬新。バンドのコーラス・レベルはすでに相当なもの。当時のリヴァプールのライヴ感と私生活の断片が伝わってくるビデオです。


    サイケデリック・テンプテーション
    わたしって変なのでしょうか、風に飛ばされないように帽子を手で押さえ、白いコットンのフレアスカートを着た自分が、岬に立って遠くを眺めているイメージが脳裏にいつもあります。 視線の先には何があるのだろうと自分のことなのに疑問に思い、気にかかって仕方がありません。穏やかな波が次第に荒くなり、わたしを呑み込むように打ち寄せて、また静かな余韻とともに引いていく。恍惚とした気分のなかで、天に昇るような忘我の波に漂うわたしがいる。今まで味わったことがないエクスタシーの不思議な誘惑が、わたしを捉えて離さない。忙しく、自分を省みる暇もない日常のなかで、タイムレスな空想の世界は未体験のアイディアルな癒しの時間を提供してくれるのですが、ファンタスティック・ストーリーに憧れる夢見る乙女は、もう卒業しなくてはいけませんね。

    以前からサイケデリック・ロックについて関心がありましたが、聴けば聴くほど、考えれば考えるほど、実体の知れない霧のなかの怪物を見ているように分からなくなりました。それはエクスタシーの体験が個人的なものであり、説明しにくいのと同じように、サイケデリアな世界の表現は困難なことなのかもしれないと考えるようになりました。それでもわたしなりに異次元世界をイメージすることができました。
    サイケデリック・ロックはどんな言葉が適当なのだろうか?
    わたしの考え方の基本は、アーティストにしろアルバムにしろ、キーワードになる言葉を思いつかない限り、真に理解が難しいというか、前に進めないのです。
    サイケ・ロックを表わす言葉として抽象的であるけれども多幸感と浮遊感、さらに原始的、幾何学的な極彩世界を思い浮かべてしまいます。
    小さなカエルがもっと自由に広い川を泳ぎたいと海に飛び込む。
    海を泳ぐカエルなんて考えただけでもシュールですね。
    時々、人間はこんなカエルになる夢を見ます。
    カエルのような人間は日常から逸脱した、普通は経験できないことに興味を持ち空想します。その空想の異次元は、宇宙のように広々としているかと思えば、ペン先のような極小のドットのなかに人間の顔が見えたりします。それが痛みや安らぎや怒りや興奮に満ち、現実に体験するように真実味を帯びて、五感に感じることができたら・・・まるでマトリックスですね。
    こんな経験を1度はしてもいいかなと深く考えもしないで、わたしは思ってしまうのですが、LSD(1970年に麻薬に指定)などの幻覚剤は、心理的トランス状態を作り出し、別のパーソナリティーに支配される幻覚を味わうのでしょうか。アーティストがハシッシュな世界に憧れたのも理解できないわけではありません。
    インド音楽に深く接近したのも哲学的な裏付けが必要とされたのでしょう。またカウンター・カルチャーとしてのヒッピー文化、ベトナム戦争(1965年)などの社会的な背景も考慮しなければなりません。
    社会の接点なくしてムーブメントの高まりはないのですから、60年代後半のラブ&ピースフラワー・ムーブメントと言われた反戦あるいは社会不安に起因する逃避的な行動は、幻覚剤という格好の材料を得て浸透することになります。
    当時の前衛的なバンドや次へのステップを模索していたミュージシャンは、新たな知覚体験に想像の活路を見出して、このムーブメントに参加し形作ることになりますが、このムーブメントは、エクストリームな言い方を許してもらえるならば、BGM的なポピュラー音楽の楽しみ方からアートとしての音楽へと表現方法の可能性を広げました。また同時にマネージメントとしても、音楽に親しむオーディエンスの裾野を広げて、新たなファンを獲得したと言えます。
    60年代後半のサイケデリック・ムーブメントは70年代に入り終息することになりますが、多くのミュージシャンが一時的にしろ、この洗礼を免れませんでした。サイケデリックの大波はロックの大衆化を促し、さらにハイクラスで複雑なアート・ロックへの道を開いたのです。
    オーディオから響くビートやメロディーに耳を傾けながら、ロックとは一体何なのか、という問いを、わたしはいつも小さな胸に収まりきれないほど考えて、ほとばしるほどの喜びと感動に涙し、失望に苛まれています。
    歴史を俯瞰すれば、67年ほど重要な年はないように考えます。
    若者文化のプロパティーとしてのロック、言うなれば既存の体制への反抗メッセージとしてのロックが、大人が関心を示し、無視できないメッセージとして社会に提示された年と、わたしは意義づけるのです。
    それまでのロックも確かに若者のサポートを受け、若者の声の代弁として、また日常の不満を解消するパートを担ってきたけれど、67年以後のロックのプログレスは、それまでと明確に異なるのではないかというクエスチョンです。
    67年はサイケデリック・ムーブメントが最も活況を呈した年でもありました。ロックの多様性を実現することになるこのムーブメントは、変貌するロックへの引き金になったのではないか。別な言い方をすれば、サイケデリック世界で獲得したアートは、ロックをまったく別の次元へと運ぼうとしていたということです。

    10年後の77年、セックス・ピストルズの登場によって、ロック史はパンク前と後にわけられるインパクトを受けることになります。67年を第1のインパルス(歴史を動かす衝動)、77年を第2のインパルスとわたしは提案したいと考えます。


    Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band60年代後半のロックが最も実験的精神にあふれ、輝いていた時代の中心にサイケデリック・ムーブメントはありました。時代の要請とは言え、それを消化するためには柔軟なスピリットとコンセプション、バイタリティーが必要です。後のロックのプランニングは、この時代に精力的に活動していたミュージシャンによるものです。
    ビートルズは63年のファースト・アルバムをリリースしてからたった4年で、コンセプト・アルバム「サージェント・ペパーズ」(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)まで進化しました。常に最先端を走りながら常識を打破ってきたことを考えても、これは驚異的と言わねばなりません。4人の選ばれしビートルはたぶん1人でも欠けても、これほどの仕事は成し遂げられなかったと考えます。グループとは不思議ですね。
    白い粉を振りかけられたビートルズは、何が新しかったのでしょうか?
    ロックの概念を変えたと思われる新しさとは、一体何だったのでしょうか?
    彼らは自分の楽曲は、ほとんどオリジナルとして、自分たちで準備しました。ビートルズに限ったことではありませんが、親しみやすくポップなセンスは、同時代のアーティストと比べてもずば抜けています。
    このソングライターとしての才能は内面への深い洞察を経ながら、社会に対してのメッセージとしてのロックのあり方を変えていきます。単純なポップス、ロックンロールからアートとしてのロックへ深化させていきます。普遍的な、完成した楽曲に結実していきます。
    さらにヒッピーの祭典と言われたモントレー・ポップ・フェスティバルにおいて、一つの頂点に達しました。時代は、ベトナム戦争の泥沼のなかにあって、カウンターカルチャーとしてのヒッピー文化、サイケデリック・ミュージックが、ここではソウルもブルースもロックも一体となって融合し、平和と共存、未来に向けた実験精神と革新が、それを体現したアーティストによってプロデュースされたのです。

    革命のマニュアル・テキスト
    目標を掲げ、導こうとするバイブル
    イマジネーションの勝利
    サイケデリアのファースト・ネーム
    ロック・ジェネレーション・レファレンス
    「サージェント・ペパーズ」に捧げる、わたしの賛辞です。

    A Day In The Life



    なんという濃密な5分間でしょうか。意味もなく饒舌に音が引き伸ばされていない。
    ムダなものは削ぎ落とされている。イントロのギターがとてもよい。
    ドラムが安定している。過剰にならないように強さを抑制している。自由自在だ。
    美しいピアノの余韻。クラシックな響きを感じさせて儚い。エコーもとても長く自然だ。


    オリジナルという「知」
    アカデミア(アカデメイア)が「知」の歴史的発展に大きく貢献したように、ロック史のなかで、ビートルズ・ミュージックはロックの雛形として、あらゆるパターンの原型モデルとなりました。同じローカルエリアに4人が集い、スタートから全く新しい発想とオリジナリティーで表現を試みたのは、奇跡という安易な言葉で語るのは憚れます。歴史のなかでは突然変異のように進化をうながす重要な転換点が存在します。ビートルズはそれぞれの個性とグループとしてのアライバルにおいて非凡な統一性を示し、そしてミュージシャンとしての運命もまた、多様性が凝縮した普遍性と原理を帯びた稀有なハーモニーだったと考えます。
    歴史に強いインパクトを与えても、ジョンとジョージは天国に召され、名前だけが残り栄華は常に滅びていく。時の流れを感じてしまいます☆彡


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