哲女のメモ 2

    #1
    会員の皆さまは、疑うことを知らない純真さです。
    師の命と同等のものである創価の組織と同化している会員は、宗教の一般的使命である奉仕精神を体現しています。他者のために尽くすことを最良の徳性と考え、信じているのです。
    不疑と疑の相克ともいえる現代にあって、善を願い、断念することない辛抱強い意志の継続は、貴重な精神運動として正当に評価されるべきです。
    ただ、わたしは、教義とともに信仰への確信を左右する情緒的純粋さにおいて「永遠の少年・少女」のような、成人らしからぬ未成熟さを、その行動と判断パターンに見てしまうのです。創価にも問題があるのです。それを知ろうとしない子どものような無邪気さは、大人に守られた子どもの幸福感と同じようなものです。
    師弟不二は、師という精神の母胎で安心することではありません。師の思想から飛び出し、世間の荒波を越えることです。信仰の自立と自我の確立は同じ意味です(話題になった海の文化と山の文化の相違は、個の主体性と独自性、場の平衡状態を維持しようとする倫理の違いであることを、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか)


    #2
    家庭を、地域を明るく照らす太陽という比喩は、女性に等しく捧げられた普遍的讃辞です。誰も菩薩になる資格があり、そのことを一番よく知っているのも女性です。励ましのなかに抱きかかえるような愛情の強さを感じ、慈しみのなかに不正を憎む正義を実践している女性は、輝かしき創価の希望です。
    恐れるものなどなにもありません。潔く清らかな美は、心のなかの品性ですね。

    かつて支配者であった王族や独裁者にかわり、民主主義という神権を獲得した大衆は、常に明快で、わかりやすい論理で、とるべき行動を説明し、妥当な判断を、強いリーダーのなかに求めています。
    このリーダーは思想家ではなく行動家で、強い確信を持っています。大衆が欲しがるのは、自分の行動を保障してくれる確信の一言であり、単純すぎる断定なのです。「悪は世界を滅ぼす。したがって戦う準備をしなければならない」という単純な断定ほどわかりやすく、受け入れられる正義はありません。
    「悪」を「イラク」に置き換えてみれば、その当時の強い確信を語った小泉首相の指導者像が浮かんできます。郵政解散のときも同じ手法が用いられました。二者択一のわかりやすい議論を誘導し、国民の支持を得て、大勝利しました。同じ確信の一言が大衆を動かすというスタンスです。3・11からしばらくの後、田中角栄待望論がでました。なにも決められない首相や政府に対し、強引さがあったとしても自信を持って行動する人物像を救世主のように思い描いたのでしょう。先行き不透明の混乱の時代、哲学もなきに等しい不毛の時代、指をさし示し、方向をさだめ、確信の行動哲学を持つ人間が必然的にリーダーになるのです。

    イラク問題のとき、国民はその判断をリーダーにほとんど一任しました。大きな渦に巻きこまれた反対勢力もつまりは同じです。中途半端な反対よりできないという根性の座りが揺れているのです。聖戦に挑む聖戦なら、なにを躊躇することがあろうと確信者は国民を鼓舞します。聖戦など幻想と、一言で大衆の目を覚まさせる真のリーダーは奇跡のように稀です。SGI提言に強い制止の言葉がなかったのが残念です。平和主義と言っても、昭和初期のころと同じで、戦争抑止になんら力を発揮できなかった仏教界の姿に重なります。グローバル時代のこんにち、他国のことであっても、漠然とした概念や理想、道理にとどまる正義をいくら説いたところで通用しません。日蓮は立正安国に命をかけたのです。なぜ、不正や不正義を強く諭そうとしないで、世界の犠牲の上に自らの提言と論理を築こうとするのでしょうか。自己満足に過ぎません。

    わたしから言わせれば、政治はファッショナブルなものであり、正しく民意が反映されるとは限りませんし、また正しい結果が伴うとも言えません。民主主義の負の側面を強調すれば、わかりやすいキャッチフレーズになびきやすい大衆が、多数決原理の行使で社会の方向を決定しても決して満足しない、ということです。その延長として、現在、大衆の過剰な権利の主張が、国を滅ぼしかねない財政悪化を招いていると言ってもよいのではないでしょうか。今や自己責任という言葉ほど死語に近い言葉はありません。

    では公明党はどうでしょう。党には理念的指導者がいません。それまで創立者がその役目をはたしてきました。社会からの非難でもある政教分離を厳格に適用しようとするジレンマが、党の勢いを減速させました。この予期しない党勢の減少は、政教分離に敏感に反応し、次第に疎遠となっていく創立者と党の精神的乖離が最大の原因なのです。また、矢野某のような人間が生れる原因の一つにもなりました。
    批判が目的の低級な政教一致論でも、党勢伸張に比例して無視できない数がおこり、創価と党は神経質な警戒を余議なくされました。この批判のための批判に同調したのは、おもしろ半分に話題をとりあげる一部のメディアと、自由と平等の質を問うことなく腐った金看板を掲げる政治家と知識人です。オルテガが弾劾した「大衆」迎合であることはあきらかです。

    選挙になれば裁判官と同等の権限を持つ国民からは、公明党が創価のほうを向いているのか、国民のほうを向いているのか、判断できない迷いがあると思われます。わたしが公明党の独立を提案するのはそのためです。公明自身もまた真の精神的指導者が党外にいるために、強い確信を持てないでいるのです。そしてこのような体質は、犠牲をいとわない外交問題に顕著にあらわれます。

    現在の中国のあからさまな東シナ海への進出が、近未来の日中間の大問題になることは目に見えています。互恵関係など、大ウソを本当らしく見せる、ただのあいさつ言葉です。誰も信じていません。日本人の戦略なき幼稚なお人よしは、もう罪悪です。
    中国の価値判断は、支配するかされるか、征服するかされるかです。さらに他を顧みない貪欲さは品性の最低部類でしょう。国家主義とは覇権主義のこと、内部覇権が行われるから同時に外部覇権も行われる、つまり権力闘争からはずされた者は粛清が待っている。知識人はおののきながら、学問ではなく、国家に忠誠を誓う。勇気なき知識人ほど、社会に害毒を流し、民衆を裏切る存在はありません。
    国民利益の代理遂行者である日本のリーダーは、財政ばかり気にかかり、恐怖がすぐそばで待ち構えていることに目をふさいでいる。
    公明党に欠けているものは、国民をリードする、リーダーとしての確信の行動と理解しています。実質的活動部隊である公明支持者と会員が、いくら頑張っても、解決できない問題でもあるのです。党自身の、党の存在自体の根本的問題なのです。創価の執行部も気づいているはずです。
    「大衆のために」という言葉がどれほどポピュリズムと結びつきやすいか、「大衆の側に立つ」とした姿勢が、沖縄基地問題を肯定し、それ以前には秘密保護法や集団的自衛権の問題への安易な妥協に至ったこと、自民党という多数派と高支持率の政権に同調した権威主義は、仏法的に言えば、権力と結託して国民を苦しめる『僭聖増上慢』と思えるほどです。もちろん会員は盲目に等しく考えることをしないので、自分に都合が悪いことは気づくことはありません。池田先生はなぜ、このような会員を模範的会員として啓蒙し続けたのか、後世に厳しく断罪されることでしょう。人間主義の体現者というなら、なおのこと、人間主義という視点から自らの過失と誤謬を正直に告白しなければならないと考えるのですが、精気を欠き、老いた現在、省みるアビリティーが残っているのか、無残な面影しかありません。

    政治家は常に言い訳を考えているものです。
    「精一杯の努力をしたのです。しかし結果は期待したようなものでなく残念です」
    ニュアンスは違っても、民主主義になってからの政治家の常套句の一つといってもよいでしょう。
    お気づきになるかと思っていたのですが、「政策実現のため与党にとどまる」という言い分は、創価の「会員のため」という言い分と同じ構造を持った大義名分であり、支持者を十分納得させるフレーズでもあります。困難だけれど、それを乗り越え、社会のため、民衆のため、弱者のために、政策実現、政治的安定を勝ち取るとする訴えは、学会活動を社会への貢献とする固い信条の会員には、最もなじみやすく、シックリくる訴えです。会員が日夜励んでいる行動基準と同じだからです。
    だからと言って、会員の皆さまの行動を批判しているわけでないことをご理解していただきたいと思います。

    会員にも理解度には個人差があり、自らが為す行為の意味を深く考えない人が批判の対象になるものでもありません。それも個性であり、尊重されなければならないことですが、少なくとも、他を指導する立場にある人は、教団が社会的影響力を保持している以上、社会的問題にも精通していなければなりません。人間に関心を持つことは、その相互の関係性にも関心を持つことであり、しいては社会の正、不正に対し意見をのべ、糾弾することです。正しき者には賛同とさらなる励ましを、悪とは徹して戦うことを、信仰とはそのような生き方であることを、結局、先生はくりかえしご指導されているのではないでしょうか。

    信じることは疑いを克服した信であり、ある信仰者にとっては哲学や思想を突き抜けた純粋さの意味でもありましょう。信は固有のものであり、個人の深い部分に関わるメンタルな行為です。定量的に量れないことはもちろんですが、学会活動に参加しないから、信がないなどと考えること自体、妙法の諸法実相の法理を裏切るものです。活動家が陥りやすい、自己満足と偏見の、浅いとらえ方であると思います。
    わたしたちの肉体を二つに割れば、そこから現れるものは、「信じること」と、「疑うこと」という二個の内蔵です。この漠然とした概念は、無明と深い関連性を持っています。信は疑うことから始まり、「疑い」をかき分け、選り分け、最後に残ったものがダイヤモンドであるように、疑いの大地のなかで、疑えない一粒の信を求めることなのです。難信難解はそういう意味ですが、これは過去の仏弟子がたどった道でもあり、完全な否定から肯定を導き出す釈尊の説法も、懐疑と迷いの二本の鎖から解放されることでした。このことについては、長くなりますので、後日の研鑽課題としたいと思います。

    あらゆる急進主義に疑いを持ったのは、ガンディーですが、平和は漸進的に進むとしたのもマハトマです。ヒンドゥー教徒であっても、インド伝統の非暴力は仏教の系譜に連ねるものです。仏教はなくなっても、民族を形作る精神として生きているということです。遺伝子のように受け継がれているのでしょう。
    ブッダはアーリア人と思われます。血統へのこだわりは強く、近親間での結婚は普通であったということですが、ブッダをとりまく女性関係も、わたしの興味の対象です。出家動機に深く関係していると考えられるからです。これも、後日の課題。

    困難な使命を感じたとき、人材が澎湃と湧きあがってきます。逆に言えば、人間成長は、困難にむかうから成し遂げられる。なまぬるい生活も信仰も、政治も、さよ~ならです。
    幸せになりたかったら、覚悟してついてきなさい、とわたしは部員さんに言うのです。
    創価は別名、弱気も怠惰も駆逐する<幸福製造案内所>みたいなものでしょ?


    #3
    宗教は哲学と行動の均衡のうえに、必要な行為として社会に受容されるものです。展開される社会があって宗教行動があるのですから、精神的価値として、社会の諸機能と調和していかなければなりません。健全な宗教組織であれば、信者を導く一つの聖的な理想が、個人が考える理想を越えて生活規範にならなければ信仰している意味もなく、社会の諸機能としての市民の責任をはたすことができないと思われます。
    日本人に流れている宗教文化は、宗派を越えた底流に、集団意識にとりつかれやすいという、ナショナリズム的要素があるように感じられます。個々の明晰な信仰を求める創価も例外ではありません。信仰「闘争」は一つの表現ですが、宗教的価値観をセンセーショナルにあつかい、また誇張して表現する精神性は、個人の意思も埋没しかねない危険を持つものと思います。個人の尊厳を説いたものが宗教なら、個人の自由を無力化してしまう扇動的指導は、非日常のルールに恭順を迫る精神的暴力と考えます。創価にもこれに似た指導があふれていることを、わたしは宗教の野蛮化と言いたいのです。中道と言いながら、どうして両極端を歩むのでしょうか。
    進歩でなければ敗者、日々向上の努力を怠れば、革命家ではないとする激しいスローガンにはついていけません。創価に一人もいないそんな人物を説いたところで納得も得られません。真理は正しくても、実行する人間の行為は間違いだらけです。自分の生命傾向を見つめる洞察の重要性を理解されているのでしょうか。ご本尊さまは自分を映す鏡というではありませんか。

    ビビッドな生の組織化、正義の組織化が運命共同体の使命なら、他者の思想に不寛容であることはもっとも恥じなければなりません。多くの思想、多くの生活に共感を寄せることが調和の喜びなのではないでしょうか。慈しみにあふれ、情け深く、正も悪も受け入れる自我は、菩薩を模範にした自己管理による心の開発なのではと考えるのです。
    同じご本尊さまを受持していても、その行動は一様でなく、画一的でもありません。世界や歴史が簡単な定理で解明されないように、多種多様な動機で出発した信仰者には、多種多様な結果があってしかるべきであり、正義や過大な自己礼賛に統一された組織の理想を、会員におしつけるべきではありません。
    組織に対しての批判意欲の減退は創価に見られる特徴だと思いますが、それは教義に忠節を誓っているというよりは、凡庸な権威の絶対主義へ近寄り、安易な師弟関係に堕して、人生という不確定性へのひたむき、理知的な挑戦が忘れられているからと推測します。
    師依存の信仰から力強い自立の信仰へ飛躍することを、自分で考え責任を持ち、一人になっても意志を曲げずに行動することを、師は求めているのです。挫けない探求心と精神の質を高める思想、明瞭な言葉を持ったほんものの人間を期待しているのです。
    挑戦する人生を、師はいつも見守っているとおっしゃられますが、不特定多数の会員は総体的にしか把握できません。優れた人間でも、他者の心を知ることはいつも不可能に近い難しさです。人間なのですから当然のことです。師弟関係から救済される人もいれば、師弟に関係なく、人生を肯定的に独立的な心的堅固さを持ちながら挑戦する人もまた多くいるのです。仏法哲学は幅広い人格に対応していることを知るべきです。慈悲は求める者のためにあるのです。組織はいつも過大に宣伝され、誇大に装飾されることを会員はよく知らなければならない。教義とは関係ない思惑が、組織を動かすルールになることもよく注意しなければならない。弟子は良かれと思って師の考えとは違う方法に固執するのです。

    一口に内部アンチと定義され蔑まれるわたしのような異端は、つねに批判にさらされますが、批判されるから間違っているとは限りません。始まりはいつも少数派であり異端なのです。また信仰の自由は自覚され意識され学ばれる自由だからこそ、確固とした精神性を獲得できるのです。左脳で分析し否定し、右脳で共感とともに肯定する。それがわたしたちが実践している祈りです。

    まず身近な人々に自分の思いを訴えて、対話のなかで論議の中立性を確保しながら、理を以って諭し、行動で証明すべきではないでしょうか。結果も大切ですが、因果倶時ならプロセスもまた凡夫にとっては大切と思います。手段が目的より尊いことはありえず、手段が正しい動機より勝ることもありませんが、未来の結果よりも現在のプロセスが大切であり、それは正しい動機に支えられているからです。何も考えない人より、思慮深い行動家がその現在を最大に活用しているアクティビストではないでしょうか。
    自分の人間的大きさの範囲しか、境涯の深さも、問題解決も達成できないのではないでしょうか。道理を学ばなければ、真理にたどりつけないのと同じように、人間を理解できなければ、集団もつまりはわからないのではないかと思っています。


    #4
    あなたのまわりには、あなたの話しを辛抱強く聞いてくれる人がいないのですか?
    親身になって相談にのってくれる幹部がいないのですか?

    嘆くことで気が晴れるなら、いくらでも嘆いてください。でも同情はしません。
    わたしから言わせれば、運命を組み伏せ、逆らうほど痛快な人生はないのに、そのおもしろさを嘆きで消しているようなものです。ご愁傷さま。

    答えは嘆きのうえにはありません。
    嘆きのカスのなかにもありません。残り火とは違います。
    嘆きは魂の抜け殻なのです。火が消えた灰なのです。
    嘆きや愚痴は、自分の人生に、自分でケチをつけるようなもの。
    ケチをつけた自分も、つけられた自分もみじめになるだけ。
    否定的な思考パターンは、まわりへの敵意と責められるような不安を助長するだけです。

    嘆きを繰り返す自我は、苦痛を与えるだけで、喜びも元気も蘇らせてくれません。自我は完璧な自我になろうと努力しています。これはあらゆる人間に共通した意識なのです。
    マイナス思考はネガティブ感情の無限回路を開き、泥沼に引き込もうとします。
    油断禁物です。
    これを防ぐには、毎日、何回も何十回も決意表明しなければなりません。自分に言い聞かせるように、弱い自分を励ますように、変化は必ず訪れることを信じて、健気に戦いを挑む自分自身に深く感謝しながら、決意を繰り返すのです。
    因が果を生むように、決意が変化を生むのです。
    (「小説・人間革命」では、どの場面でも主人公が何度も決意します。「人間革命」は、先生の決意披瀝小説なのです。決意が人々を変え動かし、創価を作ってきたのです)

    わたしは強い、わたしほど幸運な人間はいないと、自分にちょっぴり語りかければいいのです。どんな危機のときにも、自分の最大の味方になってくれるもう一人の自分が、大急ぎで目を覚ますでしょう。「目を覚ます」という表現が大変ピッタリです。自分が知らないだけです。
    胸中にいる仏の分身が、人体を構成する60兆の細胞一つ一つが、ダイナミックに再生する瞬間を体験できるでしょう。
    そのための最大の伴侶になってくれるのが、あなたのご本尊さまです。

    祈りはまず、ありのままの自分をかくすことなく、自分が自分を肯定することから始まるのです。そして信仰の継続は、自分に希望の言葉を語りかけることを継続することなのです。自分は変われる、自分は最良の人生を歩んでいけるという確信を、絶え間なく自分に告げることなのです。
    信仰にも祈りにも「方法」があることを知ってください。

    嘆きのスパイラルから、強き独白の循環に転換してください。
    ご本尊さまは、力強い生命浄化を約束してくれるでしょう。
    嘆くヒマがあったら、ご本尊さまをにらみつけて、胸奧に心があると信じて、自分を吐き出すように、ご本尊さまの命を揺さぶる題目をあげて挑戦してください。
    変わらないものは一つもありません。
    セルフマインド・コントロールが自己変革の常道であり、唯一の道なのです。
    心が変革の源なのです。スタートなのです。
    能率的能力が試される仕事も同じです。
    あきらめない活力を持つ者が困難の峰を踏破できるのです。
    総合的人間力が基礎です。信仰がその力を開発します。
    慈愛に満ちた世界を創造できる心は、本来誰にも備わっています。
    ただ隠れて現れないだけ。
    変化に柔軟に対応し、確実に、現実的、具体的行動を選択することができる自分自身も、すべて心のなかにあるのです。
    その心は、早く指令がこないかと、あなたの言葉を待っているのです。
    不安と猜疑から、自信と確信のドラマへ転回し、その報酬をしっかり手にしてください。

    霊気が漂い、読むだけで沈痛になるコメントは削除しました。嘆きほど愚かな表出はありません。毒のように、自分だけでなく家庭や社会までキズつけます。天に向って唾を吐きかける行為と同じです。
    わたしがあなたのそばにいたら、力になることができるでしょうか。
    解決方法は必ずあるのに、もどかしさを感じてしまいます。
    あなたのそばに、力になってくれる誰かがきっといるはずです。
    あなたの幸せを、深くご祈念します。


    #5
    最近、知識に飢えているわたしは、血をしたたらせたオオカミのように彷徨っています。わたしをとらえる目の覚めるような表現に出会わないことが大きな原因のように感じています。
    ある人は、指導のコピーに自分の考えを上乗せして、深化も実践もないのにご立派な指導を並べる。それも一つの生き方ですが、つまりは自分の人生も、自分では縫うことがない服を着て鏡を見ながら微笑んでいるようなもの。与えられた信仰のパッケージを中身も確認しないで、ラベルで価値判断して疑問を感じない。純真と言えばいいのか、純真バカと言えばいいのかわかりません。
    何人の人に普遍的思想を植えたのか、そもそも自分の人生を変えたのか、先生のご指導通りに心の革命家になったのか。何十年も信仰してきて生命変革過程を実感できたのか。自分で自分の始末もつけられない怠惰な信仰者が多過ぎるのです。

    独立心こそ大いなるものです。一人歩むスピリットこそ修行者の信念です。その他大勢の群衆は、みんな後からついてくる。「わたしの人生のほうが不幸で悲しくてひどかったのよ」なんて、他愛もない自慢話を交わしながら。悲哀と愚痴の道には、悲しく腐った枯れ葉が降り積もりばかり。わがままな信仰者は依存から抜け出そうとしない。菩薩行は根気が一番ですが、凡夫的菩薩には限界もあるというものです。不幸になって目を覚ますことを推奨します。不幸も時には良薬になるのですよ。

    組織悪は単純ではなく、一見、正装の紳士淑女に見えます。でもよく観察すると、細かい部分に汚れやシミややぶれが見えるのです。見えない人には見えません。

    最近、わたしはとても信じられない体験をしました。
    深夜、学活の帰り、いつものように決まった道を歩いていると、近くにあるお寺の方角から、自分のほうに向かって、ゴルフ球の大きさの白い丸いものがゆっくりと移動してくるシーンに出会ったのです。
    はっきりとした明るさでなく、よく見なければ見逃してしまうほどの明るさなのですが、飛び上がれば手が届きそうな高さで、わたしの頭上を越えて民家の屋根に消えていきました。何だったんだろうと、後で考えてみましたが、あれが世に言う、火の玉(ひとだま)かしらと思い当りました。もしも火の玉なら、手に取ってよく見たいと思いました。
    わたしは、スピリチュアルな体験を感じやすいのかもしれません。見えないものが見えるのです。信じられませんよね、こんな話し。

    旗を掲げ、勇敢に、自分に正直に、戦いを挑んでいきたいと思います。
    不動の星は古来から航海者を導き、明るく闇を照らす星です。きっとブッダも見たでしょう。大聖人は祈りを捧げたことでしょう。広大な宇宙のなかで、人間なんてチッポケな存在。その一生も光が進む一瞬間です。悲しみや楽しみはさらに刹那。そんななかで人間の邂逅は不思議な出会いです。
    正しい哲学を継承することは光をつかむような難しさ。でも人間主義は、星の輝きに負けないぐらい、人々の方角星になるでしょう。
    懸命に努力される会員の皆さまのために、わたしも負けないで、嵐のなかに飛び込んでいきたいと決意しています。


    #6
    人の一生にも四季があるように思います。
    春は美しいばかりでなく、死からの復活も意味します。滅びて再生する物語は、世界中に認められる復活譚です。死が耐えられない不安と神秘の彼方に、人間の知能を越えた不可解なものとして在るかぎり、死に有意義な意味を付加し、生の総決算あるいは善行や悪行を清算する、来世への再生願望が反映しているように思います。
    もともと、輪廻思想は釈尊以前からあったインドの伝統的思想ですが、農耕社会に一般的に認められるテーマのようです。枯れたと思われた植物が、春になればまた固い種から再生するのですから、再生と再死を自然から学び、同じ生類として人間に適用するのも無理ないことです。輪廻という基本倫理は、社会の安定に十分な役割をはたしました。ブッダもその発展形を思想に取り込んだと思われますが、因果応報の自己責任倫理が現世における善行をもたらしたのです。ニーチェの永劫回帰は、このような輪廻転生から発展し、積極的な運命の取り込みの発想を考えると仏教の願兼於業に似ています。

    白い花と濃い緑色の葉が鮮やかな沈丁花が好きです。
    花は小粒でも、香りは春の香りですね。
    可憐なカタクリの群生を見たことがあります。
    どうしてそんなに思い悩んでいるの、とわたしは言いたくなるのですが、うつむきかげんに咲く明るい紫の花は可愛らしくて、とても清純な思いを抱かせてくれます。
    小学生のとき、道路の側なのにほとんど誰も踏み入らない近くの山に、父と一緒に行ったとき、その群生に出会いました。木漏れ日のなかで、ひそやかに知られることなく咲き誇っていました。足がくるぶしあたりまで沈み込んでしまうほど、枯葉が積もったやわらかい地面。一面の花の野のあまりの美しさに涙が出そうになりました。すぐ近くにこんな深い神秘な場所があるなんて、信じられませんでした。人知れず咲き散る花は、自分を主張しないのだと言いたいほど、つつましい印象を与えます。

    若いという勢いだけで、何も与えるものを持たないわたしは、頭でっかちの苦労知らずの愚か者です。高慢になりがちな知識かぶれで、自分の正しさの主張ばかりで謙虚な気持ちを失いがちになる人格傾向があることも分かっています。
    人生は多少の苦労はあっても美しいはずだと思いたいのですが、少女時代をとっくに過ぎたわたしが、そんな願望は儚い夢のようなものであることもよく分かっています。
    でも、それでも言いたいのです。
    一生懸命生きることが、そもそもとっても美しいことなのだと。
    誰に理解してもらわなくても、苦しみや悲しみを背負い、背負いきれないほど背負い、普通のあたりまえの生活さえ叶えられない人の道であっても、誰にも知られない野の花に飾られた美しい道なのです。どんな障害があっても、生き続けること自体が美しいドラマであり、感動する主題に満ちているのだと考えるようになりました。

    最近、ブッダに関する本を集中的に読んでいます。
    と、言ってもほとんど入門編なのですが、読みながら感じたことは、出家以前のブッダはその内面に強い不安をかかえていたのではないかということです。
    今では、神格化された聖人としての姿より伝わっていません。どこか人間離れした姿と、経験と知的格闘から得られた思想は、弟子や後世の仏教者において整理されました。
    ブッダの不安は、生老病死というような形で、分かりやすく、また現実的に納得できる真理に集約されました。その不安は時代や社会構造に関係なく、人間に共通した普遍的真理と思います。また不安の障害は、社会の病理であり、不安を感じない人は皆無と思います。

    わたしがいつも感謝しているのは、父や母が苦労しながら真面目に働き、経済的に大変ななかで、仲の良い家族を支えてきてくれたことです。特別なことは何もありませんでしたが、普通の家庭で普通にそれぞれの役割を果たしてきたように思います。
    ただ信仰だけは毎日の行動から、その大切さを教えてくれました。特別病気をすることもなく、好きなことを好きなようにできた、それは両親の愛情があればこそと、今はしみじみと思います。
    そんな幸せな家庭のなかで育ってきたわたしからすれば、貴女の体験は辛過ぎます。
    半生をお書きいただきありがとうございました。
    でも、わたしは何を言えばいいのか、言葉が出てきません。理解したように言葉を吐くことにためらいを感じるのです。同苦するって、本当に難しいことです。
    とても苦労されたのですね。苦労は涙なくして語れないことは、わたしにも分かります。
    そしてわたしも感情が横溢し、とめどなく涙が流れます。


    #7
    ロシアの児童文学者・リハーノフ氏と先生の対談から引用。
    98年に発刊された『子どもの世界』です。
    この対談のなかで、演劇的家庭論というサブテーマで対話を進めています。

    『池田:話を元にもどしますが、私は、社会が現在直面している危機的状況を打開する一つの方法として、演劇的家庭論というアイデアに着想してみたいのです。
    リハーノフ:それはどういうアイデアなのですか?
    池田:俳優が、ドラマの中でそれぞれの役割を演じていくように、家庭という劇場で、父親役や母親役、一定の年齢に達したならば子役などの役柄を演じていくという発想です。
    現状を固定的にとらえるのではありません。名優が自らの役柄を見事に演じきっている時の余裕や落ち着き、自己統御などの徳目を、家庭という劇場の俳優たちが備えているとするならば、家庭の雰囲気も、よほど変わっていくにちがいありません。
    仏法では「願兼於業」ということを説きます。自分がどんな悪業を負って生まれても、宿業を転換して法を弘めるために、自ら願ってそのような姿で、今世に生を享けたのだという法理です。
    であるならば、「願兼於業」を自覚する人には、自らの境遇に対する不満も恨みも慨嘆もありません。その人は、勇気をもって現状を肯定したうえで、未来へ力強い一歩を踏み出していくでありましょう。ゆえに、私どもの宗祖は、筆舌に尽くしがたい大難を受けられた時、「もとより存知の旨なり」と悠然としてそれに対処していかれたのです。
    また、私の恩師も、軍国主義下の二年間の投獄生活の苦労を問われた時、「願ってもない、えらい目に遭いました」と、いかにも恩師らしく豪放磊落に語っておられました。
    まさに名優の面影が彷彿としております。人生観の根幹にかかわることですから簡単にはいきませんが、こうした余裕や落ち着き、自己統御、あるいはある種のユーモアのセンスのようなものをもとうと、お互いが努力をすることです。
    親であれ、子どもであれ、いずれも一個の人格であり、人間として平等の存在です。家族という同じ舞台の上で劇を演じている一人ひとりは、共々に家庭創造のドラマを支えているという意味においても平等なのです。
    役者が協力しあわなければ、どんな舞台も失敗に終わります。おのおのが、その役回りを賢明に演じ、責任を果たさなければ、成功は望めない。
    また、劇にハプニングはつきものです。その場合でも、皆で団結して乗り越えていく。家庭も、これと同じではないでしょうか。
    <中略>
    ある意味で、「家庭は劇場」であり、「家族は、その劇場の俳優」と言える。大事なことは、各人がそれぞれに"よりよい演技を"と心がけていく時に、家庭はもっと豊かで、もっとはつらつとしたものになるのではないでしょうか』


    ここでリハーノフ氏は、家族の一員として、意図しないで、その役割を果たせなかった自分の体験を通し、劇のなかの役者のように演じきれない場合もあることを、反論気味に述べます。経験から得られたものであるからこそ、強い確信にもなれば、反省の根拠にもなったりします。リハーノフ氏は家庭劇について別の視点を与え、強い絆に支えられていても、外的要因で家庭が変貌することもありうること、また家族を巻き込む困難に対し、演劇的要素を持ち込むのはふさわしくないと心情を吐露します。
    理論や建て前だけでなく、個人的な本音を引き出す対話術は先生の真骨頂です。それはお互いの信頼感に依っているからでしょう。反論は対話を豊かにし、双方向の意思の疎通を可能にして実りあるものにします。

    『リハーノフ:ある部分ではあなたは正しいと思いますが、ある部分では、私はあなたに論争を挑みたいと思います。
    池田:いいですね。どうぞ、どうぞ。七年前に、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領とクレムリンでお会いした際、私は冒頭に「ケンカしましょう」と。大いに議論しましょう、ということを、ユーモアを込めて申し上げました。
    建設的な議論からは、必ず"何か"が生まれます。ソクラテスの対話がいみじくも"産婆術"と呼ばれていたように。
    リハーノフ:家庭生活を劇を演ずるかのようにとらえることは、私にはとうていできません。むしろそれは、永遠の波瀾万丈なのではないでしょうか。
    夫も、妻も、そして子どもも、社会にあって常に複雑な個々の状況に立たされています。大人たちは職場や知人たちの間で、子どもたちは学校で――それぞれが家庭の外で遭遇するドラマは、やがて家族全員が関知するところとなります。
    家族の絆が深く、強い土台の上に築かれている場合には、妻や、夫や、子ども、誰か一人が家庭の外でぶつかった問題を乗り越えるために、家族が支えとなることもあります。しかし、そのような外的な問題や環境が、家庭を変貌させ脇へ押しやり、壊してしまう場合も少なくありません。
    私の家庭のドラマをお話ししましょう。私は、三十九才の時、病気をしました。なかなかはっきりした診断が出ずに、しばらく入院をしたままでした。ついに診断が下り、手術が必要とのことでした。
    私は手術を受けました。担当の医師は有名な外科医で、私の手術の執刀する前日に科学アカデミーの会員に選ばれたところでした。そういうわけで、私は彼の「アカデミー患者」第一号になったのですが。
    手術は成功し、退院し、一年が過ぎ、三年、一五年が経ちました。私は病気になる前よりもっと仕事をし、主な著作を書き上げ、作家として認められるようになり、そして児童基金を設立しました。
    そんなある日、ある会合で、あの時の外科医にばったり出会いました。今は老碩学になっていました。別れ際にクロークのところで、彼は私にこう尋ねました。
    「あれから何年経ったかね?」
    私が答えると、彼は言いました。
    「君の病気、何だったか知ってる?」
    私がちょっと当惑しながら、当時知らされていた病名を言うと、
    「いや、それは違うよ。あれは、ガンだったんだよ」と、彼は声高に笑いました。
    私は、何かで頭を強く叩かれたようでした。気が動転した私は、あいさつを済ませ、外に出ると一目散に家に向かいました。
    家に着くなり、私は、妻のリリヤを呼び、外科医と会ったことを話し、今度は彼女に尋ねてみました。
    「君は知っていたのかい?」
    「もちろん」
    なぜ私に知らせなかったのかは、問うまでもないことでした。
    池田:ガンの告知の問題は、非常にデリケートな問題で、わが国でも議論が繰り返されております。私も、ケース・バイ・ケースで対処すべきであって、是非の間に明確な一線を引くことはできないと思います。それはともかく、奥様の苦悩は察するにあまりあります。
    リハーノフ:言うまでもなく、腫瘍は再発の恐ろしさで知られています。私はある一定の周期で、再発の可能性にさらされていたわけです。一年後、三年後、そして五年後、と。
    その時、もし私が愛する妻の立場にあったらどうだっただろうか、と考えました。彼女はどれほど苦しみを秘めて耐えてきたことか、ずっと緊張の連続だったにちがいないことを知ったのです。
    彼女は言いました。選択をしなければならなかった、と。私の健康のために周りに囲いをめぐらせ、仕事から遠ざけたほうがよいのか、それとも、以前と同様に、私がやりたいことを全部やらせておくべきなのか。彼女の選択は後者でした。
    そこで、もし誰かが、彼女は家庭という場で上手に役を演じただけと教えてくれたとしたら、私はおそらく愕然とし、同時に笑ってしまうでしょう。いかに昔、彼女がテレビのアナウンサーと演出の仕事をしていたといってもです。
    いいえ、あれは演技ではありません。苦難への挑戦です。それも、最も近しい人間に打ち明けられず、苦しさを分かち合うわけにはいかない。家族と医者との秘密である以上、ほかの誰にも助けを求めることもできない。そうした中での絶え間ない葛藤との闘いだったことでしょう。
    ですから、妻は、何年も経ったのちとはいえ、私に真実を暴露してしまった、かの碩学の外科医に一番腹を立てていました。もしも私が、真実をもっと早い時期に知らされたとしたら、私がどう受けとめるか、誰も保証できない。くじけてしまうかもしれないことを、妻は了解していたのだと思います・・・。
    したがって、敬愛する池田さん。どうか悪く思わないでください。でも、夫と妻が演技をできるのは、とても限られた場面だけなのではないでしょうか。
    たとえば、二人の意見が合わない、でも些細なことでケンカをするのは賢明ではないと判断して、お互いが角を立てずに折り合いをつけるといった場合には、当てはまると思います。
    でも、家族が困難に本気で立ち向かわなければならない状況に立たされた時、同苦と愛情と支えを必要とする時まで演技が持ち込まれたとしたら、悲しいことではないでしょうか。
    わが家では、先ほど述べた真実が明るみに出て以来、何事につけ、私は妻の勇気と力と慈しみの心に崇拝の念を抱き続けています』


    危篤な病のなかで演技ができる人は稀でしょう。病はそんなにお人好しではない。またできたとしても、それは単に仮面を被り、自分やまわりにウソをついているようにしか思えない。気持ちの問題は別にしても、病を通した家庭再生を望むこと自体が難しい。確かに心にもない演技をして、一時的に誤魔化すことができても、家族といえど真の心の交流にはならないでしょう。先生は"演技"について定義を試みて、それは人間性の輝きであるとリハーノフ氏に告げます。

    『池田:心にしみ入るお話ですね、リハーノフさん。
    私の申し上げた「演劇」、あるいは「演技」という言葉の含意を申し上げますと、それは人間性の発露から生じる行為――といった意味なのです。ですから、奥様のなされたことは、誠にすばらしく、感動的であり、豊かな人間性に満ちた行為です。
    「演技」というと、どこか嘘っぽく本心を偽ることを、心ならずもやらなければならない擬制(実質はちがうのにそうみせかけること)といったニュアンスで受け取られがちな点は、日本でもロシアでも同じでしょう。しかし、私の言う「演技」は、人間の本然からの営為なのです。
    ですから、表面上のこしらえごとを言ったのではありません。人間が本能に支配されることなく、自己をコントロールしゆく人間性、人間であることの証を体得していくための必須の行為であり、いわば人間性の勲章とでも言うべきものなのです。
    私が、真の意味での「演技」が漂わせている「余裕や落ち着き、自己統御などの徳目」を指摘したゆえんであります。
    たとえば、私どもの宗祖の生涯は、迫害に継ぐ迫害の連続でしたが、五十歳の時、生涯最大の難である斬首刑に処せられようとします。
    その時、不思議な出来事があって、結局、刑は取りやめになったのですが、その直後、宗祖は、何と捕吏たちに酒をふるまっておられるのです。驚嘆すべき境涯の高さであり、「余裕や落ち着き、自己統御」のお手本のような振る舞いというしかありません。
    私が、進退きわまった苦境に立たされた時の恩師の悠揚迫らざる態度に見て取ったものも、それに通ずるような人格の力であり、輝きでした。
    すなわち、真の意味での「演技」とは、そうした卓越した人格の力のおのずからなる流露です。孔子が「徳弧ならず、必ず隣あり」と言っているように、それは、巧まずして人々を魅了してやまない振る舞いへと結実してくるものです。
    宗祖のような宗教的巨人の振る舞いを、万人に要求することは無理かもしれません。しかし、通底するものは同じなはずです。
    リハーノフさん。あなたの夫婦愛のエピソードからうかがえる、奥様の内なる闘いこそ、まさに人格の力であり、人間性の輝きです。奥様の苦渋の選択、その後の忍耐強い支えの背景に、「余裕や落ち着き、自己統御などの徳目」があったのです。人間性の奥深くから発する「迫真の演技」「真実の演技」と申し上げたいのです。
    そうした意味から、私は、家庭生活に限らず人生そのものがドラマであり、人間は、本質的に劇的性格をもっている、と信じているのです』


    先生も指摘しているように、人生の演技性と願兼於業は深い関係があると思います。
    願兼於業の不確定なシナリオは、不確定であるがゆえに予想のつかない波乱に満ちており、また神にも仏にも支配されたものではありません。どのようなハプニングが起きるか全く分からないという意外性とドキドキ感にあふれています。それがそっくりそのまま、人生のドラマ性に重なるのですから、演技者がすなわち迷い、闘う人間なのであり、また観客という社会の人々に希望とスリルを与え、感動の虜にする名優に他なりません。
    名優は物語のテーマと自分の立場をよく心得ています。病というドラマ、貧しさというドラマ、老いを人生の総仕上げとするクライマックス、死の荘厳さという場面。

    生を真剣に生きた者だけが演じることができる各場面は、シナリオ以上の醍醐味があるのです。豊かな恵みがもたらされる自己統御の冷静さとたくましさは、名優と同じ人生の達人として、また最良のコミュニケーションを体現した菩薩のセリフは、それを聞く者の胸に熱く訴え、感動を与えることができるでしょう。さらに求道者として真実を求めぬいた不屈の精神のドラマ。他者を愛した個性的で自由な生の実践。今までも絶望から帰還した勇者が幾多もいたことでしょう。信仰と熱情によってどれだけの人々が、不幸のくびきから脱したことでしょうか。自分の生き方は自分の手のひらに握られているのです。捨てるも拾うも自分次第なのです。
    人生が、すべてが願兼於業の自分が書いたシナリオであることに思いがおよべば、演じきった素晴らしさと充実感ははかりしれません。命に刻まれている宿業も、遺伝子が書き換えられる同じ原理で、このような充実感のなかで転換されるのではないでしょうか。心の財は妙法という法理です。不幸をかけがえのない心の財産として所持できるのは、信仰者が得た功徳であり、特権です。
    さらに方便が妙法に照らされたとき、秘妙方便に発展し、方便自体が真実であるというドラマチックな転換が図られます。受動的な人生から能動的な人生にコンバートしていくとき、境涯に変化があることは当然です。妙法はそのためのエンジンであり、ドライバーは信仰者であることに思い至れば、どこに行くことも自由であるという境涯を獲得できる大きな福運と功徳に包まれることでしょう。

    先生の、あるいは創価の理念と目的が記された「人間革命」の冒頭の言葉、
    『一人の人間における偉大なる人間革命はやがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする』

    この言葉は、こんなふうにも言い換えることができるのではないでしょうか。
    『全人類の不幸は、一国の不幸でもあり、一人の人間の不幸に転換され凝縮される』

    一念三千の法理に説かれるように、社会を無視した人間の幸福はありません。同時に、個人の不幸は社会に反映し、個人の不幸の解決も、社会に影響を及ぼして、国や世界に対しより良き選択の材料となり証明となるのではないでしょうか。

    不幸は幸福の反対の形をしています。そのプロセスも下り坂と上り坂のように、方向も困難さも違うと思います。そして幸福に上限がないように、不幸にも限界がありません。
    「不幸の連鎖を断ち切るために、妙法の闘士は目覚めなければならない」
    不幸や不安を克服するために、そのような使命を自覚した人が、菩薩といえる尊い人格者になる因を持つことが可能なのではないでしょうか。

    年齢や性別、地位には関係ないと思います。強い人間ばかりが幅をきかす世のなかであれば、弱者はどうすればよいのでしょうか。弱者から強者への変革を成し遂げるのが、仏教の目的としたら、不幸や不安や、自分の存在に関わる重大な問題解決に、たとえ人生の大半を費やしたとしても、その経験を経た人が、本当の弱者の味方と言える資格を有しているのではないでしょうか。
    菩薩はその弱者を救済するために、内的な問題、外的な問題をことごとく背負い、背負いながら挑戦し、自分の生のあり方と自己統御の方法を苦難のなかで発見し、妙法の真髄に至る確信を得るのではないかと、わたしは考えるのです。

    宿命のボードに埋め込まれた挫折と心傷のストーリーから、使命というスポットライトがあたる躍動のステージへ、自分が演出し自分が主役の人生劇を、力強く演じてください。
    若年のわたしが言うべきことではないかもしれません。
    本当の自己実現という妙法の功徳は、これから花開いて、きっと人生を飾ってくれるのではないでしょうか。ぜひ、そのような百花繚乱の花吹雪が舞う幸福な人生になりますことを、ほとんど何も知らない人様の人生に対して、失礼と思いながら、祈りを捧げたいと思うのです。花がほころぶように、苦しみもほころび、喜びに満ち足りた美しい人生を実現してください。

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    香港に栄光あれ!


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